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さあ、パストラミごっこだ

 今日もニュースを見て、誰も死にたくも殺したくもなかっただろう、多くの人達の死に打ちのめされながら、ある作家のことを思い出した。

 その作家、エトガル・ケレットは第三次中東戦争が始まった年にテルアビブで生まれた。小説を書き始めたきっかけは、19歳の時、親友を自殺で失った絶望から立ち直るためだったそうだ。以来、テロと紛争が日常のイスラエルで作家活動を続け、賢い妻と、テロの混乱の中で生まれた第一子がいる。
 彼の作品の特色は、何と言ってもシニカルで軽快なブラックユーモアと、奇想天外な展開だ。

 私が一番好きなのは、『突然ノックの音が』に収録されている「嘘の国」という短編だ。今までつき続けていたくだらない嘘が現実に存在するパラレルワールドのような空間があって、そこには前足のない犬や、病気になった架空の叔父がいるのだ。
 もし自分がついた嘘が具現化していたらなんて想像すると、ちょっと後ろめたいような気もするし、ワクワクもする話だった。

 ケレットは、ユーモアについてこんな話をしている。

 ユーモアとは耐えがたい現実とつきあう手段なのです。
抗議する手段でもあり、ときには人間の尊厳を守る手段でもあります。
やりたくないことをやらなければいけないとき、ユーモアをもつことは、「ほら、まだおれは人間だぜ」と言っているのと同じなのです。
(『銀河の果ての落とし穴』後書きより)

 彼のエッセイ『あの素晴らしき7年』を読むと、この言葉の真髄がきっとよくわかるだろう。
 戦争とたえず隣り合わせの人生を送りながらも、彼は彼らしく生きることを決してあきらめないのだ。
 たとえば最終篇の「パストラミ」では、高速道路に空襲警報が鳴り響く中、ケレットと妻は車から降りて息子にも伏せるように言う。しかし、まだ小さい息子は理解できずに固まってしまう。そこでケレットは、こんなふうに提案する。
「じゃあ、パストラミサンドイッチごっこしよう」
 すると、息子は大喜びで腹ばいになった両親の間に挟まり、パンの真ん中のパストラミになってみせるのだった。

 人間の本質は、これほどまでにしぶとくてやさしい。

 今、戦火の中に、あるいはすぐ近くにいる人たちは、どんなふうに過ごしているだろう。日本との時差は約7時間。長い一日はまだ終わっていない。
 親子連れや、一人きりの人、恋人がいる人、病気や老齢で病院から動けない人、それを治療する人、小さな子ども、まだ生まれていない子ども。私にできるのは誰も死なないでほしいと願うことだけだ。

 そうしてできれば、乗り切ってほしい。すべてが良くなるまで。

 ケレットの父親は、第二次世界大戦中のホロコーストの生き残りだ。
 晩年、彼は重い病気にかかり、それでも医者にこう言う。

「わしは人生を愛しとる」と父は医者に向かって譲らない笑顔を見せて言った。「もし人生の質が良ければそりゃ結構。質が悪けりゃ、それはそれで仕方ない。えり好みはせんよ」
(『あの素晴らしき7年』エトガル・ケレット)

 人間が人生を愛するように、人生もきっと人間を愛している。だから、どうかこれ以上誰も、誰一人も死なずに、平穏な日を迎えてほしい。

 連日、この戦争のことについて考え続けるのがいいのか悪いのか、私にもよくわからない。何の専門家でもなく、誰に意見を求められているわけでもない。自分のメンタルヘルスには、正直あんまり良くないだろう。

 それでも、心だけでも寄り添ってはいたいと思って書いた。

 追記:これを書いてる間にまさか、核に怯えながら眠らなくちゃいけない夜になるとは思っていなかった。
 もう言葉なんか見つからない。

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