見出し画像

「なんとか生きてます」

「次の仕事が決まったら、……いや、決まっても決まらなくてもいいから、連絡してね」

 無断欠勤と遅刻を繰り返し、とうとう出社できないまま前職を辞めることが決まった後、会社でとてもお世話になった人が、駅前で最後の挨拶をする時間を作ってくれた。
 うつをこじらせていた私はろくに話もできなかったし、顔すらまともに見られなかったのだけれど、そんな事には一言も触れず、その人は別れ際にこの言葉を言って、会社に戻って行ったのだった。

 だけど結局、私はその後一度もその人に連絡しなかった。単なる社交辞令だろうと受け取っていたし、ただでさえ迷惑をかけたのに、どの面下げて連絡したらいいかもわからなかったから。

 その上、うつの病状がずっと回復しなくて、前職のことはずっと思い出さないようにもしていた。あの頃関わった人や、自分にできなかったさまざまなことを思い出すと、自分がいかに無能で、役に立たないかということを、嫌でも考えさせられたから、ひたすら逃げて、逃げて、逃げていた。つい最近までそうだった。

 だけれど、近頃は生活も少し落ち着いて、少しずつではあるけれど、当時を振り返ることもできるようになってきた。
 そんな中でふと、あの時の、あの人の言葉を思い出したのだった。
 そして、もしかしたらあの言葉は社交辞令というわけでもなかったんじゃないだろうかと、今になって思った。

 また連絡してね、と言うのは決まり文句だけれど、次の仕事が決まっても決まらなくても、と言うその言葉に込められた思慮深さは、あの人の人柄からしか出て来ないものじゃないか。
 そんなふうに思えるし、それがしっくり来るのだ。
 もし連絡をしていたなら、きっと相談にも乗ってくれたのだろうし、仕事が見つからないと言えば、力になってくれたんだろう。
 そうだ、そう言う人だった。

 それなのに、私は長い間、自分に向けられていた善意と気遣いに気づかずにいたのだった。うつ病になると視野も狭くなるし、物事をネガティブにしか考えられなくなるものだから……と言いたいところだけれど、多分、あの時、病気でなくても気づけなかったと思う。私はそれよりもずっと前から、自分の事しか考えていなくて、卑屈で、人の優しさを素直に受け取れなかったから。

 むしろ、病気を経ていろんなものが一度ゼロになった今だからこそ、やっと気づくことができたのかもしれない。

 「いつから、どういうふうに変わったのかはわからないけど、少しずつしゃべれるようになってから、自分が変わったことに気づいたんだ。話し方が前とは違っていたんだ。無言の時間が稲妻みたいに光って通過して、その移動経路は燃えてなくなっているんだけど、俺はもう違うところに来てるんだよ。それは明らかに俺だけの言葉と関係があったんだ。」

『アジの味』クォン・ヨソン

 クォン・ヨソンの小説『アジの味』の中で、主人公が久しぶりに再会した元夫は、声帯嚢胞になって喋れなくなった期間を経て、自分というものがすっかり変わったと言う話を、こんなふうに表現している。
 雄弁で、尊大で、自己中心的だった彼は、手術をして喋ることを禁じられている間に、さまざまなことを考え、自分と向き合う時間を与えられ、変化したのだった。
 元のように喋れるようになっても、彼はもう以前の彼と同じではない。

 私が病気で何もまともにできなくなり、できることだけを少しずつやり続けるしかなかった月日も、私を違うところに連れて来たのだろうか。

 もしもあの人に連絡を取れる時が来たなら、いつか「あの時はお世話になりました。なんとか生きてます」と伝えようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?