不自由さと救い
山と渓谷社から出ている『自然について、わたしの考えを話そう』というインタビュー集の中で、建築家の安藤忠雄が、「あえて不自由な間取りにすることでしかできない体験がある」というようなことを語っていたのを、時々思い出す。
読んだのがずっと前なのでもうかなりうろ覚えなんだけれど、調べてみると、そんな話に繋がりそうなエピソードが出てきた。
安藤忠雄の初期の代表作・住吉の長屋は、三軒続きの長屋の真ん中の一軒を天井までぶち抜いて中庭にし、部屋を行き来するのにわざわざ庭を通り抜けなければならない間取りにしたらしい。雨の日はバスルームに行くためだけにいちいち傘を差さなければならないし、不便きわまりない。住宅としては明らかな欠陥だ。
しかし、そうすることで日々の暮らしを通じて天候や風、植生といった自然に接することになる。毎日見ていれば、微妙な変化にも気づくだろう。それが不便さ、不自由さから生まれる新たな価値だというのだ。
それは建築ではなく、人にも当てはまることだろうか。
不便で不自由な生活を送るからこそ、気付くことがある。効率を追い求める人生では見えない豊かさがある。そんなふうにも言えるのだろうか。
以前も引用したことがあるクォン・ヨソンの短編小説『アジの味』では、饒舌な大学講師だった男が、声帯嚢胞を患って喋れなくなった期間を経て、まったく別人のように変化し、こんなことを言い出す。
自分の思うように生活できなくなった中で欲求と向き合っているうちに、その本質がわかってくる、あるいは、根源的に知っていたことを思い出す。そんな体験があるのだと「彼」は言う。
「彼」はそれによって今までの価値観が変わったと言っている。が、穿った見方をすれば、色々な状況が変わってどん詰まりの中、どうにか前向きに生きるために病気になったことに意味を見出そうとしたとも見えないだろうか。
人は不条理の中に合理性を見つけたがる存在だ。
だけど本当に、不自由であること、不自由になることに合理性なんてあるんだろうか?
リハビリテーションでは、障害の受容には価値観の転換が重要だと言われる。それは多くの場合、能力主義・競争主義の時代の価値観において無価値になってしまった自分を受け入れて生きていくことが困難だからだ。私も同じで、どうしたら自分にも生きる価値があると思えるのかを長い間、必死に模索した。
自分が人とは違う障害者であること、うつ病になって何もできなくなったことに、合理的な意味を見つけようとした。
治療を受けている患者として存在しているだけでも医療の発展には貢献しているのだ、とか、社会的弱者になったからこそ弱者の気持ちがわかるようになってきたのだ、とか、いろんなことを今までに考えた。
そうやって考えること自体、病気にならなければなかっただろう、とも思った。だけれどそれは、全て結果的に言えることでもある。
偶然私はそうして考え続けているうちに、病状自体が回復してきたり、経済的な問題が一旦解決したりして、今ではそこまで深刻に生きる意味に向き合う必要もなくなってきた。(今だけかもしれない)
しかし、誰もが同じルートを辿って同じところに辿り着くとは限らない。
合理性なんて、あるともないとも言えないのだ。
きっと、安藤忠雄の建築も本当はそういうものなのだろう。
彼は、建築とは「体験するもの」なのだと語る。
不自由だからこそ、自分にとって必要なことを自分で見つけ出す。そういう生活の中で、否が応でも自分自身と対話し、工夫することになってゆく。それでも折り合いは付かないかもしれないが、ともかくそういう「体験」をする。
体験は体験としてあるだけで、良いか悪いかは個人の解釈次第だ。
せっかくの人生なのだから良いものであるべき、楽しむべき、というのも、価値観の押し付けになってしまうだろう。能力主義、競争主義の価値観から脱出しても、次は「より良く生きるべき」という別の価値観をインプットしなさいと言うのでは、結局生きるということの自由がない。
人は別に泣き叫びながら生きたっていいのだ。
そう、きっと自由であることが、何よりも大事だ。生きることに固定された意味はない。
自分が体験した障害というもの、病気というものからどんな意味を見出しても、見出さなくても、自由だ。一見救いがないように思えるかもしれないけれど、本当はそれだけが救いなのだ。
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