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大変だけど

 "本来感"という言葉にはじめて出会った。

 「自分自身に感じる本当の自分らしさの感覚」という意味らしい。友人の修士論文、本来感にまつわる調査に協力しますと名乗り出て、唐突に突きつけられた質問、「今、あなたは、自分の職業に対して本来感を抱いていますか」。 

 高校を卒業してすぐの頃、個人事業主になるための開業届を出して、自立しなきゃ、はやく自立しなきゃと奔走していた頃を思い出した。主に写真や映像のお仕事。業務委託を結んだり、個人的な撮影案件を受けたり、頂いた依頼はなんでも引き受けて、自分の仕事がどれくらいの価値なのかなんてわからないから、時給換算した値段をつけるのがせいぜいで、結局手をつけたら見積り通りにはいかなくて、アルバイトしてたほうが稼げてたな、ということもあった。

 「大人になろうとすると、社会に合わせて生きようとすると、書きたいなと思い浮かんだ文章も、撮りたいもののアイデアも、明日朝早いからもう寝ようって書き留めるのが後回しになって、今、気づいたらなにも残ってないんです、つくりたいものがないんです。でもわたし、なにも表現できないんじゃ、別に生きていたくないです、それ以外に生き甲斐ないので。社会生活と自己表現、両立できないです、これって甘えなんですかね。みんなどこかで帳尻合わせてできてるものなんですかね。」

 と訊いたら、できるよ、甘えだよと言われたことがある。

 その人の言葉が忘れられなくて、甘えなのかな?って今もずっと考えてる。まだわからない。だって、あのままいろんな仕事を受け続けるのは、きっとわたしには死ぬほど苦しいことではなかったろうから。苦しくないから、大きな事件でも起きなきゃやめどきもわからないまま続けていただろうし、かといって、毎日が刺激的で楽しい!というわけでもなくて、学生時代のような、荒地の中で自分の道を模索するような苦しみを感じることも、落ち込むこともなくなったから、自分自身に向き合う理由がなくなって、表現もすこしずつ辞めていって、自分の手で自分の息の根、ゆるりと止めていたような気がする。あのときは、社会的責任とか、自立とか、お金を稼ぐこととか、QOLとか、そんなことばかり考えてしまうようになっていたけど、わたしは、自分のこころの声を無視し続けることだって、甘えだと思ったから、このままじゃわたしつまんない人間になりそうだと思って、全部手放した。仕事を頂いたことにはもちろん感謝しているし、どの生き方が良いとか言いたいわけじゃない、軸が違うだけ、それにわたしがいま同じ質問を誰かにされたら、なんと答えたら良いかわからない。

 ただ、その時期の記憶だけが、ずっとずっと薄ぼやけている。写真はあまり残っていないし、音楽も同じものを繰り返し聴くだけになった。電車で降りる駅はいつも同じ。味気ない。味がない。

 「今、あなたは、自分の職業に対して本来感を抱いていますか」

 質問をされたとき、そんな過去がわっと浮かんで、そういえばあれは一年前の出来事だったのか、と驚いた。一年もあれば人間は変わるものだなぁ。わたしは今、やりたいと思うことにほとんど全振りしてる状態だから、去年とはまるで違う生き方をしている。

 きいて!YouTubeの収益化の三大条件、「チャンネル登録者数1,000人」「総再生回数10,000回」に続いてなかなか突破できなかった最難関、「総再生時間4,000時間」をやっとクリアして、このあいだ管理画面をひらいたら、初めて、あなたの映像がこのくらいのお金になりました、って、数字が表示された。自分の創作物が、時間も場所も超えて、経済的格差に囚われず誰でも観ることができて、そして自分がこれから新たな創作をするための資金が生まれる、なんて素晴らしいシステムなんだろう。最近YouTube広告の流れる頻度が増えて、いやだなーと思ってたけど、そんな気持ちは吹っ飛びました、ありがとう。いつも観てくださる皆さまも、ありがとうございます。

 映像一本を撮るときの支出に比べたら、そのとき見た額は微々たるものだけど、それでも、自分の撮りたいままに映像を撮ることが、やっと生活に近づけたんだって嬉しかったな。同級生や、いろんなご縁で繋がった人たちの、夢に向けた活動のためのプロフィール写真を撮らせて頂けるのも嬉しい。今年の一月、おともだちに誘われて、バーに立ってみたとき、わたしに会いに、満席になるくらいたくさんの方が顔を出してくれて、嬉しかったな。なにか記しておきたいことが思い浮かんだら、こうやって、今夜みたいに、好きなときに夜更かしして物思いに耽りながら綴ることができて、嬉しいな。明日の朝ははやく起きても遅く起きてもいいから、今夜はまだティーポットに残っている紅茶も飲み干してしまおう。

 個人事業主という名前は変わらないけど、一年前と今年では別の職業のように感じる。だから、職業欄は、「自営業」じゃなくて「自由業」に丸をつけるようになった。自分で営む、ではなく、自分に由る職業、そう在りたいと思って。

 「今、あなたは、自分の職業に対して本来感を抱いていますか」

 今の自分はまだ理想の自分とは程遠いし、本来感がどのくらいあるかと聞かれたらわからないけど、この一年の日々が頭の中を駆け抜けていって、そのまま現在に着地したとき、最初の質問の答えは紛れもなくYESだった。

 本業の傍ら、自己表現ができる人は本当にすごいと思う。わたしは両立に挑戦してみたけど上手くいかなかったから自由業という肩書きがいちばん肩の力を抜いて使えるというだけで、それでも自由という言葉にすべてを丸めて放り込んで仕舞いたくない、まだまだ自分のいろんな可能性を模索したい。それが本当の自由のような気がする。

 職業名なんて関係なくて、"本来感"に必要なのは、自分の可能性を絶えず広げ続けることができるか、身体的に精神的に経済的に、その状態を自分で整えられるかどうか、それに尽きるのかもしれないな、なんて考えました。おとなの自分が、こどもの自分の声をたくさん聞いてあげて、ちょっと我慢したり面倒くさいことを促したりしながら、社会と自分に手を繋がせてあげる方法を探すこと。或いは、自分が活き活き生きることで、社会もすこし活き活きする、そんな関係性を模索し続けることかもしれない。社会なんて憎たらしいけどね!

 別にわたしは、写真も映像も撮りたくてしょうがないわけじゃない、だからあまり自分のこと写真家とか映像作家とか呼びたくない、その道を究める人たちに畏れ多いから。わたしの思想、哲学、発見をどんな形でも色でも出し続けて、混沌としたこの世界の中で、一瞬だけでも手を取り合える誰かを見つけられたら、囁き合いたいだけなんだ。「生きるのって大変だけど、あなたとわたしの点と点が交わった今この瞬間だけは、声を大にして言いたい!生きててよかった!」って。その瞬間を積み重ねられるのであればわたし、カメラにも楽器にも筆にも固執する必要ないの!藝術ってそういうものでしょう。わたしの藝術はそうなの。

 丁寧に生きるのも、夜更かしするのも、右に左に自分がハンドル切ってやりたい放題したい!!むかつくことはぜんぶわたしの原動力、でろでろに溶かしてガソリンにしてやる。これからもガンガン飛ばすぜ!遠くまでいこうね、車が動けるうちに。

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