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ぼくは0点? 第一章 中1①

序章:

 突然、胸のあたりに激痛が走った。思わず、自転車のハンドルを離しそうになる。
 (な、なんやっ?)
 胸に手をやった途端、今度はへその上あたりを2回目、3回目の激痛に襲われた。
 (おわっ!)
 うずくまりそうになったせいでハンドル操作を誤った。川沿いの土手を走っていた自転車は、そのまま土手を川とは反対側、田んぼの方に転がり落ちてく。自転車のまま草の生い茂る土手を駆け降りることができたのは日ごろの曲乗り遊びの賜物なのだろう。まだ田植え前で水の張っていない田んぼにつっこんだところで、秀雄は大の字に転がった。自転車から投げ出された痛みよりも先の胸と腹の痛みの方が激しい。急いで学生服の下のワイシャツをはだけると、秀雄の親指ほどのアシナガバチが飛び出していったのが見えた。
 「おーい、しんちゃん、大丈夫かあ?」
 「新藤くん、けがしたんちゃう?」
 土手の上には、秀雄の後ろから来た制服姿の生徒たちが何人か集まっていた。通学時間なのだ。校則のために全員がヘルメットをかぶっている。男子はその下が坊主頭だ。
 「大丈夫じゃ。誰かしょんべん、かけてくれえ。ハチに刺されたあ」

 昭和50年代、日本中に第二次ベビーブーム世代の子どもがわんさかいた時代、四国は香川県の山奥といえども例外ではなかった。同じ香川に住む人にもその存在をほとんど知られていない、県境にある鴨田村。周囲を山に囲われた盆地のほぼど真ん中に建っていた鴨田小学校は、田植えの時期になると湖の真ん中に浮いているように見えた。大正時代に建てられたこの小学校は、平成になってじきに廃校になるも、秀雄が卒業した年にはまだ全校生が221人いた。2クラスある学年が2学年、それ以外は1クラス。教師たちからは「山ザル」と呼ばれていた新藤秀雄(しんどうひでお)が鴨田小学校第62代生徒会長に選ばれたのは、走るのと泳ぐのとが学校で一番速かったからだが、秀雄でなくても、全生徒がお互いの顔と名前をしっかりと見知っている人数、時代であった。

 この年の4月に秀雄が入学した清水東中学校は、盆地の西側にある峠の登り口辺りに建てられており、秀雄の家からだと鴨田小学校を超えてさらに遠くになるため、自転車通学が許されていた。



第一章:中1

◆1学期 初めての定期テスト
 「おぉ、新藤、大丈夫やったんか?」
 朝のホームルームに遅れて1年3組の教室に入った秀雄に、担任の石塚先生が声をかけてくれた。まだ若いわりに、礼儀にも厳しいのは、秀雄の所属している剣道部の顧問でもあるから。事情はほかの生徒から聞いているようだ。
 「保健室でアンモニア、塗ってもらいました。今すっごい、かゆいです」
 秀雄は体操服に着替えていた。友達におしっこをかけてもらったからではない。思春期を迎えつつある秀雄の友達は、秀雄の目線に局部をだすことを恥ずかしがったのだ。
 「ハチがシャツの中に入るって、どんだけスピード出しとったんや?気をつけんといかんぞ。まあ、無事でよかったわ。ほんだら、みんな、さっきの話を続けるで」
 石塚先生は黒板の横の掲示板に大きな紙を貼り付けた。

 清水東中学には鴨田小学校以外にも、鴨田盆地の北の山向こうにある海辺の2つの小学校からも生徒が集められるため、1学年が4クラスとなっていた。
 「これが今度のテスト範囲じゃ。みんなは初めての定期テストになるの」
 紙には、表が書かれており、数学・国語・英語・理科・社会の枠に分かれていた。枠内にはそれぞれ「教科書:〇~〇ページ、ワーク:〇~〇ページ」「資料集:〇ページ、〇〇の図は絶対に覚えておく!」などと書かれている。
 「ええか、小学校の時は聞いたことないと思うけど、中学からはこうやってテストの出題範囲を教えるけんの、この範囲の勉強を自分でしっかりせんといかんで。テスト期間中、部活は休みや!」
 「いぇーい!」
  生徒数が少ないため、校則で全校生徒が何かしらの部に所属することが強制されており、ほぼ全員が歓声を上げた。
 「ちがう、ちがう。部活が休みになるんは、勉強のためじゃ。遊んでええわけではないんぞ」
  石塚先生は3組にも数人いる剣道部の面々に顔を向けながら説明を続けた。

  現在の公立中学校では5月の中間テストを実施しない学校が増えているが、昭和の時代はまだまだ年5回の定期テストが主流であり、特に新1年生は入学して日が浅い時期に最初の定期テスト、中間テストを迎えることとなる。実は、この新学年最初の中間テストは、生徒にとっては実施される方がお得だったりする。
  そもそも新学年が始まったばかりのこの時期、自己紹介や中学生活の説明などもあって、ほとんどの授業が進んでおらず、試験範囲などはないに等しい。さらに、中学初めての定期テストということもあって、それぞれの教科担当の先生も難しい設問を作らないことが多い。例えば、国語の設問に「小学校生活と中学校生活の違いを書きだしなさい」というものが出たり、社会の最後の設問が「あなたが中学生活で頑張ろうと思うことを書きなさい」とあったりする。英語では、アルファベットを大文字・小文字でそれぞれ正しい順番に書くという設問の配点が一番大きかったりする。
 実は点数が採り放題のテストなのである。このお得さに気づかない生徒が多かったのが本当に残念なのだが、秀雄もそれをまったく気づかない生徒の方に入った。

 1学期中間テスト
 国語84点:数学74点:社会78点:理科69点:英語82点
 合計387点:平均77.4点

 中学入学以来、秀雄の中で何かがおかしいと感じることが増えていた。
 まず、学級委員に任命されなかった。体育の体力測定、50メートル走で負けた。授業中に発言した際に笑いは取れても先生から「ちょっと違う」と言われることが増えた。いずれも小学校時代にはなかったことだ。
 初めての定期テストの点数も、自分が思っていたものからは「おかしい」ものだった。秀雄は小学校のテストでは80点以下を採ったことがないのに、最初の中間テストで80点以上がほとんど採れなかったという現実に驚いた。
 ただ、その「おかしい」原因が何なのかわからない。秀雄は「石塚先生から『テスト範囲の内容を自分で勉強しておきなさい』と言われたのに、何もしなかったせいだ」と自分を納得させることにした。
 ほとんど何もしなかったのは事実だった。秀雄は別の小学校から来たクラスメートが教えてくれたラジオの深夜放送にはまってしまい、テスト期間中もラジオを夢中で聞いていたのだった。

 1学期はあっという間に過ぎていく。6月末、期末テストの1週間前になり、各教科のテスト範囲が発表された。中間テストの5教科に加え、音楽、美術、技術家庭、保健体育の4教科が加わり、全9教科となる。
 誤解を恐れずに言うと、公立学校の教師は自分の生徒にいい点数を採らせたいと考える方が普通である。点数が悪いということは自分の教え方が悪いという証明になるわけで、意地悪な問題などは基本的に出さない。かといって、あまりに簡単な問題では生徒の為にならない。テスト範囲の発表だけでも入試に比べればかなりの親切なのに、それに加えて、授業中にわざわざ「ここ、テストに出すぞー」と教えてくれたり、場合によっては、全く同じ問題を出したりしてくれるのだ。「普段の授業をしっかり聞いて、テスト範囲をきちんと勉強すれば、いい点数は採れるんだよ」いう教師の恩情なのである。

 中間テストのことがあったので、前回は何もしなかった秀雄でも、この1週間の「テスト発表期間中」は毎日、家でも机に向かってみた。向かってみて気づいた。
 (何をしたらええんじゃ!?)
 よく考えれば、小学校時代に学校の宿題以外の勉強を家でやったことがなかった。学校以外で勉強したことがない、と言ってもよかった。当然、塾に通ったこともない。それ以前に、秀雄の住んでいた鴨田村には塾がなかった。実は秀雄が知らなかっただけで、数名の生徒は極秘で峠を越えた山向こうの塾に通っていたのだが。
 とにかく、教科書を開いてみた。
 (教科書を読んどいたら何とかなるやろ)
 次に自分のノートも開いてみたが、黒板に先生が書いてくれたことを丸写ししているだけで、何が要点だったのかはさっぱり思い出せない。それをぼんやりと見るだけにとどまってしまった。
 そうこうしているうちに22時になったので、秀雄はラジオのスイッチを入れた。そこから深夜1時、2時まで神経はイヤホンをつけた耳に集中、教科書とノートはただ開いているだけの状態になる。これが毎日続いた。

 1学期期末テスト
 国語78点:数学58点:社会67点:理科64点:英語52点
 音楽63点:美術77点:保健体育68点:技術家庭85点
 合計612点:平均68点

 多少なりとも勉強した自負はあったので、5教科全ての点数が下がったのには少なからずショックを受けた。とはいえ、両親から何かを言われることもなく、夏の大会を間近に迎える剣道部の練習は激しさを増しており、秀雄はすぐにテストのことを気にしなくなった。

 夏休み中、剣道部の練習時間はほとんどが午前中だった。
 「今日も行くか?」
 「行こうで。俺、今日も水着、持って来とるし」
 「俺はもう着がえたぞ」
 「海パン一丁でチャリこぐんか?ええのう。俺も部室で着がえとこう!」
 練習後、部員たちと連れ立って海に行くのが日課になっていた。自転車通学となって活動範囲が一気に広がったことが大きい。
 清水東中学の後ろ、高松市内へと西に伸びる峠とは別、北に位置する峠を越えると眼下に海の煌めきが広がる。そのまま坂を自転車で一気に駆け降りると、じきに小さな漁村の防波堤に出ることができるのだ。防波堤から海に飛び込む、何度も飛び込む。ただただ飛び込むだけの行為がなんでこんなに楽しいのかは秀雄たちにもわからない。屋内競技であるはずなのに、真っ黒に日焼けした剣道部部員たち…。

 今のところ秀雄たちが知っている海は、この優しい瀬戸内海だけだ。高校生になって初めて高知県で太平洋を見た秀雄は、その大きさに驚くとともに、その荒々しさに怖くなり、同じ四国でも香川県人と、小説で読む高知県人との県民性の違いのルーツがなんとなくわかったような気がするのだが、それはまた別の話。

 秀雄がのほほんとまったく勉強しない夏休みを過ごしている間、進藤家では彼の人生を左右するとんでもない騒ぎが勃発していたのだが、本人はまだ何も知らなかった。

◆2学期 内海(うつみ)中学校
 進藤家は父親と母親、長男の秀雄、4歳離れた妹、さらにその2歳下、秀雄からは6歳下の弟という5人家族である。秀雄が骨太なのは母親に言わせると「父親ゆずり」だそうだが、両親ともなかなかにがっしりしている。秀雄が中学に入学したこの年、妹は小3、弟は小1だった。
 夏休みの終わり頃、パーマをかけて洒落者を気取っていた父親がとつぜん角刈りにして帰ってきた。秀雄たち兄弟は思わず笑ってしまい、慌てて「しまった」と思うのだが、いつもなら「親を笑う奴があるか!」と張り倒しにくる父親が、この時は何も言わなかった。
 その数日後、9月のまだまだ暑い日曜日の朝、父親の指示で家族全員が車に乗せられ、西の峠を越えて高松市内に連れていかれた。秀雄たちの親せきのほとんどが高松市内に住んでいたが、車にエアコンがまだまだ完備されていない時代、全開にした車の窓の外に広がる景色は、どの親戚の家とも違う方角、秀雄のまったく見知らぬ町のそれだった。汗が噴き出す中、1時間ほどで着いたのは、古い木造の平屋の前だった。
 「家の掃除、手伝え!」
 車中、何を聞いてもほとんど話してくれなかった両親だったが、ここでいきなり父親が、車の後ろから箒やら雑巾やらを取り出してきて、秀雄たちに命じた。母親はさっさとバケツに水を汲んでいる。既に何度か来ている様子だ。
 「来月からここに住むけん、今の家に帰ったら、引っ越しの準備をしとけよ!」
と聞いたのは、昼過ぎになって、母親がいつの間にか作って持ってきていたおにぎりを食べているときだった。母親からは
 「お父さん、仕事辞めたけん、今の社宅は今月中に出んといかんの。はけん、あんたらは10月からこっちの学校に通うことになるで」
 と多少マシな説明があったとはいえ、子供たち3人には青天の霹靂であることは変わらない。とはいえ、詳しい話を聞いてはいけないような雰囲気を両親が出しているのも確かだ。もともといかつかった父親は、角刈りにしてますますいかつく、話しかけにくい。
 平屋は至る所がカビ臭いとはいえ、今の社宅よりはずっと広く、未だに自分の部屋がなかった秀雄は、
 「あっちの部屋、子供部屋にしてええん?しばらくは俺一人の部屋でもええ?」
 と声に出してみた。重苦しい雰囲気を変えたかったのだ。声に出したところで思考が止まった。あまりの突然さで、それ以上のことを考えるのを心が諦めたのかもしれない。
 「学校、転校せんといかんの?」
 妹が泣きそうな声でつぶやいた。

 結局、運動会の関係で10月第一週まで秀雄は清水東中に通い、運動会翌日の月曜日に高松市立内海中学校に転校した。清水東中では小学校の6年間をずっと一緒に過ごした友達や剣道部員たちを中心に皆が涙、涙で送り出してくれたが、目の前のことをやるだけで精一杯だった秀雄は、涙を流すことさえすっかり忘れていた。
 月曜朝早く、秀雄は自転車、母親は原付バイクで並走しながら内海中に向かった。内海中の後ろには屋島とその山頂まで伸びるロープウェーが見える。
 自転車置き場の段階で、その規模は清水東中の倍以上であることが分かった。そのまま職員室に向かい、事務の先生に通された職員室の隅、応接コーナーのイスに座った。職員室も清水東中学より数倍広い。その広い職員室の奥から、先の事務の先生に伴われて、秀雄にしたらおばあちゃんのような女性が、にこにこしながら近づいてきた。
 「おはようございます。あなたが進藤秀雄くん?」
 緊張していた秀雄にとって、ありがたいくらい優しい声だった。
 「お、おはようございます」
 「私は1年11組担任の大西加奈子(おおにしかなこ)です。はじめまして。担当教科は国語です」
 大西先生は少し垂れ気味な目をますます細めて微笑んでくれた。
 「お母さん、制服は一緒ですね。新しいのを買う必要はありませんよ」

 妹と弟を新しい小学校につれていかないといけない母親は必要書類を提出するとすぐに帰り、秀雄は大西先生の後に従って職員室を出た。
 「さて、1年生の校舎に行きましょうか」
 (1年生の校舎って?)
 歩きながら大西先生がさらに話をしてくれた。並んで歩くと、大西先生は秀雄より背が高かった。ということは、最近追いつきつつある秀雄の父親よりも大きいかもしれない。
 「内海中はここ数年で急に生徒数が増えているので、運動場にプレハブの校舎を建てて、1年生はそのプレハブの校舎を使っているの。来年の春には新しい中学ができて、半分はそっちに行くから、それまではプレハブ校舎で我慢ってところかな。さっきお母さんが教えてくれた住所だと、進藤君は新しい中学に行くはずよ」
 急に大都会に来てしまった気がして、緊張だけでなく、恐怖まで感じるようだった。
 (田舎もんやとなめられたらいかん!)

 内海中学校は、平家物語、壇ノ浦の合戦で登場する屋島の麓にある。山にしか見えない屋島は、昔は文字通り「島」であり、今のように地続きではなかった。内海中の建っている場所一帯は、昔は海だったところであり、そこに市電が走り、市電の駅に直通するような形で屋島山頂に登るロープウェーの駅もあった。屋島山頂からは東西に広がる瀬戸内海を一望することができる。秀雄も家族と一緒に何度か登ったことがあり、特に西の海に沈む夕日が絶景だった。
 昭和50~60年代にかけて、屋島周辺には住宅地が多数整備され、内海中には県内県外を問わず多くの生徒が集まってきていた。この当時、1学年だけで14~20クラスにもなっていて、その収容能力はすでに限界に達していた。

 1年11組、最初の挨拶こそ秀雄は無難にこなした。こなしたつもりだった。
 「進藤くんって野球部に入るん?」
 昼休み、学級委員ということと秀雄と出席番号が近いという理由で世話役に任命され、隣の席になった佐藤くんが校内を案内してくれた。
 「いや、なんで?」
 「真っ黒やし、坊主やし」
 秀雄はここで改めて、佐藤くんの頭が坊主ではなく、育ちのよさそうな坊ちゃんカットであることに気づく。そういえば、11組だけでなく、校内ですれ違う男子生徒の中に坊主頭はいない。
 「野球は苦手や。剣道部に入るつもり」
 「そうなん。うちのクラスに剣道部はおらんなあ。もう一つ、聞いてええ?」
 「ええよ」
 「前の中学で成績よかった?」
 「えっ、ぜんぜん普通やったよ」
 「そうなん。何回も手、あげるし、頭よさそうな感じが全開やで」
 佐藤くんは坊ちゃんカットだけでなく、面長で色白な様子が、内面の優しさ全開の生徒だった。とはいえ、初対面で成績について聞いてくるあたり、多少の警戒感が出ていることに秀雄は気づいていない。
 秀雄が1時間目の授業から手を上げて質問をするようにしたのは、馬鹿にされないように気をつけただけ、秀雄にとってはいつも通りのことだった。しかし、内海中では、先生から指名されるまで、自分から手を上げて質問や発表する生徒はおらず、かなり目立ってしまったようだった。
 「ほんで、先生から聞いとん?今週の木、金、中間テストやで」
 聞いてない。
 (昨日が運動会で、今日転校して、木曜からテストやと!?)
 運動場が使えない関係で内海中はここ数年、運動会は春に、近くの陸上競技場を借り切って開催しているのだそうだ。その分、清水東中より2学期の中間テスト日程が早くなっている。
 佐藤くんが職員室に同行してくれて、各教科のテスト範囲が一覧になっているプリントをもらってくれた。そこで大西先生が全教科の教科書を見せてくれ、全てが清水東中と同じ出版社のものであり、買い替える必要のないことを確認してくれた。
 家に帰った秀雄は、珍しくすぐに机に向かって自分のノートを確認した。一応、授業中に先生が黒板に板書したことは必ずノートに書いてはいる。それとテスト範囲を見比べてみたところ、特に数学と英語は大きく、他の教科も少しずつ、清水東中より内海中の方が進んでいることがわかった。実は今日の授業中にも何となくおかしさを感じてはいたのだが、最近、授業を聞いても、自分がわかっているかどうかさえ怪しくなっている秀雄には、確信が持てなかったのだ。

 2学期中間テスト
 国語64点:数学33点:社会50点:理科77点:英語7点
 合計231点:平均46.2点
 クラス順位41人中32番:学年順位587人中474番

 いろいろ驚いた。
 英語の7点の驚きは、解答する時点でほとんどの設問が全くわからずに、唯一手が出せた記号選びの設問が「3問も合っていた!」という驚きだ。
 英語の答案が返される時、小柄でつぶらな瞳の英語の田井先生が
 「今回、このクラスの満点は佐藤だけや」
 と言ったのも驚きだった。
 (佐藤くん、頭ええんや)
 中学1年生だけで600人近くもいることに驚き、そして順位が出ることに驚き、何よりも自分の順位の低さに驚いた。いきなり直球を顔面に投げつけられた気分だった。
 (587人中474番って…。俺、もしかして頭悪いん?)

 小学校時代を含めて、秀雄は両親から一度も「勉強しろ」と言われたことがない。それは秀雄が勉強しない子ではなく、宿題は自分からきちんとやる子だったことが大きい。しかし、宿題はきとんとやっても、予習や復習といった「自分で勉強する」ということが、秀雄にはよくわかっていなかった。小学生のときに始めて中学でも続けている剣道においても、毎日の決められた練習にはきちんと参加するが、素振りやランニングといった部活時間以外の練習は、強制されない限りやらない。どこか「そういうことを勝手にしてはいけない」と思い込んでいる節があった。今回、7点の答案を見た母親が聞いてきた。
 「あんた、ドリルか何か買うてこうか?勉強、わからんのとちゃう?」
 「いや、こっちの学校にまだ慣れてないだけやけん。期末までにはきちんと勉強するわ。お父さんは何か言うとった?」
 内海中に転校した10月以降、夕方に出かけて朝に帰ってくる夜シフトの仕事に就いていた父親とはあまり顔を会わせていない。滅多にしゃべらない、しゃべるよりも先に手が飛んでくるタイプの父親がどう思っているのかを考えると怖くなった。
 「お父さんは何も言うとらんかったわ。あんたに任しとるんやと思う」
 任せる、と言われたところで、
 「勉強の仕方がわからない」
 とは秀雄には言えなかった。
 そして秀雄は迷いながらも母親にとんでもない提案をしてみた。
 「ちょっとこれ見て」
 週刊漫画雑誌の裏表紙だった。そこには
 『寝ているだけでグングン成績が上がる!睡眠学習枕』
 という文句が躍っていた。値段は19,800円、今の進藤家には大変な額であることは秀雄にも分かっていた。

 数日後、秀雄は「睡眠学習枕」を手にしていた。説明書にはこんなことが書いてあった。

・付属の専用カセットテープに、自分の覚えたい内容を、お持ちのラジカセを使って自分の声で録音してください。
・専用カセットテープは6分の録音が可能です。
・覚えたい内容を3分にまとめ、専用カセットに3分×2回、録音しましょう。
・お持ちのラジカセを本体(枕部分)につなぎ、本体のタイマーをセットして、ラジカセの再生ボタンをオンにしてください。お休み前、起床時、セットした時間にラジカセが起動・停止し、起動中、カセットはエンドレスで再生されます。

 この当時のラジカセには、カセットテープの両面を自動で再生する「オートリバース」機能を標準装備している機種は少なく、片面の再生が終わったら、一旦カセットテープを取り出し、裏返しにして入れ直す必要があった。

 秀雄はこの通りにやろうとしてみた。幸い、家には父親が知り合いからもらってきた古いラジカセがあったので、付属の専用カセットテープを入れて、歴史の教科書の覚えたいページを読みあげてみた。3分で2ページも読めなかった。他にも何冊か教科書を試したが、3分に収めるには自分で相当に短く、要領よくまとめないと無理だということに気づいた。つまり、まずしっかりまとめたノートを自分で作る、それを自分で声に出して2回も読み上げる、という手間が必要だった。そこまでしたら枕に関係なく覚えられるよね、という代物だ。また、そもそも数学はどうしようもなかった。この前年にテレビ放送を開始した国民的アニメのネコ型ロボットが出してくれる「暗記パン」のようなものを想像していた秀雄の目論見はあっという間に崩れ去った。

 結局、睡眠学習枕もすぐに投げ出し、何か特別なことをするでもなく、日々だけが過ぎていった。テスト発表があってからのテスト期間中、自ら課したラジオ禁止だけは守った。

 英語の試験中、前回の中間テストで唯一答えらしきものがわかった記号選びの設問は、今回、選択肢を見ても全くわからかった。困った秀雄は六角エンピツの6面の1面ずつに記号を書いて転がし、出た目の記号を解答欄に書いた。下手に考えるよりそっちの方がマシではないかと思ったのだ。それが秀雄の人生に影響するとも知らずに。

 英語の田井先生は、生徒からはMr. Taiを縮めてミスタイと呼ばれている。
 「ヒデオ・シンドー…」、ミスタイから名前を呼ばれたときには、既に秀雄は教壇の方へ歩いていた。答案を受け取る。すぐに答案用紙の右上、点数欄を見てみた。〇が一つ…、さっきからずっとミスタイが秀雄と全く視線を合わせようとしなかった意味がわかった。それは〇ではなく0(ゼロ)だった。生まれて初めての0点だった。
 秀雄は真面目に思った。
 (これは…お父さんに殺されるかも)

 2学期期末テスト
 国語88点:数学42点:社会54点:理科90点:英語0点
 音楽62点:美術82点:保健体育55点:技術家庭67点
 合計540点:平均60点
 クラス順位41人中24番:学年順位587人中323番

 もう12月、日が落ちるのは早い。家に帰りたくはなかったが、すぐに真っ暗になり、しかも寒かった。どこにも行く当てがない。いつもは夜出勤の父親が、あいにく今月は昼のシフトになっていた。夕飯ものどを通らずに待っていると20時ごろに父親の車のエンジン音がした。秀雄は玄関に正座した。吐く息が白い。

 「兄ちゃんについていく!」
 と譲らない弟を連れて、数人の友達だけで山向こうの海に泳ぎに行ったことがあった。6年生の夏休みのことだ。鴨田盆地の東側の比較的険しくない峠を越えて徳島方面に進めば、県内でも有数の海水浴場、津田の松原(琴林公園)に行くことができた。
 津田の松原、涼しい木陰を提供してくれる松林を抜けると、目の前に真っ白な砂浜が広がっており、波は穏やかで、水の透明度も高い。泳いでいても足に絡みついてくる海藻がほとんどなく、秀雄はプールよりもこの海で泳ぐことが大好きだった。
 但し、子どもだけで自転車に乗ること、峠を超えて校区外へ出ること、どちらも小学校では禁止されていたため、この時の秀雄たちは二重に校則違反を犯して、子供だけで行く計画を立てていた。そこに弟を連れて行くというのは、かなりのハイリスクだったが、「お父さんに言つける」とまで言う弟を置いていくわけにもいかず、険しくないとはいえ、かなり長い峠道を、おんぼろ自転車の荷台に弟を乗せて登り切った。
その夜、弟が高熱を出し、秀雄は父親から思いっきり殴られ、家の外に放り出された。最後に母親が入れてくれるまで、泣きながら外で座っていた。

 (あん時も正座やったのう)
 引き戸を横に開けて父親が入ってきた顔先に、秀雄は正座したまま、
 「すみません。こういう点を採りました」
 と英語の答案を差し出した。顔は下に向けている。
 (顔を上げとったら顔面を殴られる、頭だったら痛みに耐えられるやろ…)
 と秀雄なりに考えての行動だった。父親が答案を見ているのは気配でわかる。
 (くるか?もうくるか?)
 と待ってみた。一向にでっかい手が飛んでくる様子がない。
 恐る恐る、秀雄は顔を上げた。
 そこには作業着のまま玄関に立っている父親の寂しそうな顔があった。秀雄が今までに見たことのない表情で、父親は答案を眺めていた。
 「…」
 しばらく沈黙が続いた。
 「これは…、本気で何とかせんといかんの」
 ふいに父親がつぶやいた。
 それが秀雄に向けての言葉なのか、独り言なのかはわからない。ただ、この時の父親の寂しそうな表情を秀雄はずっと覚えていることになる。
 (俺が0点やったせいで、お父さんがこんな寂しそうになるんか!)
 秀雄は本気で思った。
 (何とかしよう!)

 「坂本式に行ってみん?」
 母親が声をかけてきたのは翌日のことだ。聞いたこともない名前だったが、どうやら塾みたいなものらしい。秀雄は塾に行ったことがない。鴨田村には塾がなかったし、校区外まで連れて行ってやると言われても、いつも断っていた。学校の授業がわからないと思ったことがなかったからでもある。
 「行きます」
 秀雄がこんなに素直に、しかも敬語で母親に答えたのは、後にも先にもこの時だけ。
 やる気メータはマックスだった。


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