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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 第三章

第三章
1
 雄二は1962年、福田家の次男として誕生した。姉1人、兄1人、この兄は雄二が生まれる前に死亡している。家は兼業農家を営んでおり、敷地内には畑もあった。普段、父親は役場に勤めている。
 幼いころからその外見は両親には似ず、何の血を引いたのか、顔の彫が深く、色は浅黒く、日本人離れしていた。
 保育園では、既に「やんちゃ」とは呼ぶには悪質過ぎる騒ぎを繰り返し起こし、手を焼いた園から退園を言い渡されている。
 小学校に入学すると、体が学年で一番大きいこともあって、自分の言い分が通らないと暴れる、殴る蹴る、という相手を威圧して黙らせることを常とした。威圧的な態度を取るのは、小心さを隠すためである。特に、相手が自分よりも弱いと思ったときには徹底的に威圧した。低学年の頃から、母親にも手を上げるようになっている。それを見ても、父親は何も言わなかった。
 雄二が高学年のときに両親は敷地内に新居を建てるのだが、雄二の望むままに、旧居は取り壊さず、平屋の建物すべてが雄二専用の家となった。

 この時代、特に地方では、生徒全員が必ず何かしらの部に所属する、という校則を持つ中学校があった。雄二の通う中学がそうで、大抵の男子の同級生たちは運動部に所属した。雄二自身は園芸部に入部するも一度として活動したことはない。
 中2で身長は止まり、体の厚みは正面から見ても横から見てもほぼ同じような体型になった。もとより授業はまったくわからないし、運動部で鍛えた男子の中には、雄二よりも大きくなる生徒、雄二の威圧に屈しない生徒が出てきたこともあって、学校を休むことが増えていく。同じように学校をさぼる数名とつるむようになり、自然発生的に彼らは雄二専用の平屋にたむろするようになった。
 この頃には酒を飲むようになっている。小心者の強がり、見栄張りが酒を飲むと加速し、大暴れすることもあった。力が強い分、質が悪い。夜遅くまで酒を飲んで騒ぐ姿や、朝になっても学校に行かない子どもたちを見ても、雄二の両親は何も言わなかった。深夜徘徊や自転車やバイクの窃盗など、何度か警察沙汰も起こしても、やはり何も言わなかった。既に両親は完全に息子に支配されていた。6才違いの姉は高校卒業後に逃げるように上京し、ほとんど連絡がつかなくなる。

 高校には入学した。仕事をするのが嫌だった。名前を書けば合格すると言われていた高校であっても、入学できた最大の理由は、卒業後の報復を恐れた中学の担任が、雄二の内申書と出席日数を改ざんしたからだ。中学の教師も雄二にとっては威圧できる対象だった。
 高校の入学式には出席しているが、派手な髪形、変形した学生服、下駄履きで登校したため、複数の校則違反で入学式初日から停学になっている。学歴社会と呼ばれていた当時、公立高校は偏差値が高い高校ほど校則は少なく、雄二の入った高校の校則は、生徒手帳が分厚くなるほどの量だった。
 停学解除後も高校には行ったり行かなかったりが続いたが、中学からの同級生がいたこともあり、平屋に数人がたむろすることに変わりはない。高校からは少し距離があったにも関わらず、むしろその数は増えていく。夏休みを境に、週末には男女を問わず、十数人が集まるようになっていった。
 但し、これは雄二に人望があったからではない。今となっては、雄二に本当の友人がいたのかも怪しい。単に雄二専用の平屋が彼らにとって都合がよかったということだ。敷地が広いこともあって、中には車やバイクで乗り込んで来る者もおり、飲酒して深夜まで大騒ぎしたり、飲酒のまま無免許で車を乗り回したりすることも増えていった。校内の派閥争いや高校同士の抗争で、雄二にも声がかかるのは、数合わせで呼ばれていただけで、雄二を頼ってではない。肝心なところで逃げ出すのは周知の事実だった。
 雄二本人にできたのは、せいぜい後輩相手にすごんだり、一般生徒に恐喝・ゆすりをしたりする質の悪いものばかりで、さらに平屋に集まる連中と一緒になると、シンナーを盗む、女子生徒を無理やり連れ込むなど、警察に厄介になる回数は増えていく。近所だけでなく、この地域全体に厄介者として名前が知られるようになっていた。そのため、父親はこの頃に役所の仕事を辞職している。

 高校を卒業しても、特に定職には就かなかった。就けなかった、が正しい。先輩や同級生を頼って鳶や左官、工事関係の仕事についたことはあったが、どれも長続きしていない。親に買わせた外国車を乗り回し、東京や横浜でふらふら遊び惚けていた頃に、福永春香と出会っている。
 福永春香は、変わった女子だった。バーで見かけた時は、いつも透けるような真っ白な肌を出した真っ黒な服を身に着けて、一人でカウンターの隅でタバコをくゆらしていた。近寄り難い雰囲気を無理やり押しのけて声をかけるのだが、春香はまるで何も聞こえていないかのように、視線を動かすこともない。
 それでも、雄二は春香を見かける度に声をかけ続けた。自分たちが一緒にいる光景は人目を惹いている、と雄二は信じて疑わなかった。実際、二人とも日本人離れした外見と言ってよい。とはいえ、北欧系で背が高く肌が真っ白な春香に対し、雄二は南米系、立って並ぶと春香の方が背は高く、お嬢様とボディガードのような組み合わせに見えた。 
 「自分は家を持っている。ネコだって何だって飼える。」
 初めて春香が反応らしい反応を見せたのは、雄二がそんな内容を口にした時だった。
 「ネコ?」
 それから程なくして、春香は雄二の家、平屋に住み着くことになった。


2
 春香を呼び込むために、雄二は親に平屋を大々的にリフォームさせている。
 この頃には溜まり場として使われることはほとんどなくなっていたとはいえ、長年の悪行のために、平屋はゴミ屋敷のようになり、いたる所が破壊されていた。春香からは「汚いところには絶対に入らないから」と何度も念押しされていたのだった。
 ネコは春香が自分で連れてきた。既に「ベリー」と名が付けられていたキジ模様の子ネコだった。この頃、春香は食事代わりにいつもブルーベリーを食べている。
 春香が来たことで有頂天になった雄二は、この時に塗装会社の見習いとして定職に就く。平屋の新しくなったリビングを自分たちの寝室にして、そこから毎日、仕事に通った。直に春香は妊娠し、それを機に二人は入籍した。式は挙げていない。春香が拒否した。
 1985年、19歳の春香は女児を出産した。雄二が23才の時のことだ。
 生まれた娘は「瑠伽(るか)」と名付けられた。春香が自分の名前から取ったもので、それなりに愛情をもっていたようだった。
 体形が崩れることを嫌がって、母乳で育てていないとはいえ、当初、春香は育児に懸命に取り組んだ。様子がおかしくなるのは1歳児検診後、「イヤイヤ期」が激しくなり、春香の思い通りにならないことが増えた頃からだ。
 ソファの上だと落ちてしまうので、春香はルカをダイニングの床の上に放置して、いくら泣いても、無視するようになっていく。ルカがどんなに泣き叫ぼうと、春香は換気扇の下でタバコを吸うか、ソファで美術雑誌や通販雑誌を眺めていた。

 赤ちゃんが人とコミュニケーションを取るための方法は、泣いたり笑ったり怒ったりという情緒表現である。「泣くのが赤ちゃんの仕事」とも言われる。この表現の受け手となる母親(養育者)は、赤ちゃんの表情やしぐさから、気持ちを察し、その欲求を満たせるように行動する。この時期のコミュニケーション度合いが赤ちゃんの性格形成に関係し、引いてはその後の人生にも影響を及ぼす、とも言われている。不幸にも、母親(養育者)が何らかの事情で赤ちゃんの情緒にうまく応えられないとき、どんなに泣いてもケアを受けられない赤ちゃんは、外に向かって働きかけることをやめ、表情を失っていく。これが「サイレントベビー」と呼ばれる赤ちゃんである。
 ルカの無表情はこの時に構築されており、その後、それが笑顔へと変わっていく。ルカが日常生活で絶やさない笑顔は、自分を守るためにできる精一杯の抵抗であり、無表情を隠す仮面だった。

 ルカが生まれ、春香が育児に追われるようになると、雄二は平屋を出ていった。もともと、春香が一切料理をせず、自分の食事さえほとんど食べないので、雄二自身の食事は本宅で母親が用意するものを食べており、ルカの夜泣きがひどくなったことで、夜も本宅で寝るようになったのだ。春香が本宅に来ることは絶対にないため、雄二が平屋に行かなければ、二人が顔を合わすことはない。
 雄二に、育児に協力する気持ちは一切なかった。別に子どもが欲しかったわけでもなく、生まれた娘を見ても愛着は感じない。
 ただ、春香とSexだけはしたかった。そのため、ゲームをするという建前で時々、平屋に顔を出した。それはもはや、帰宅ではなく訪問だった。そんな雄二を春香は出会った頃のように無視する。Sexのことだけを考える雄二にとって、娘は邪魔な存在だった。
 何度か酒の力を借りて、自分の欲求を叶えることを無理強いしたことがある。雄二の酒癖が悪いことは当然、春香もわかっており、ここに住む条件の一つに、自分の前では酒を飲まないことを約束させていたくらいで、春香に怖気づいていた雄二もそれを守ってはいた。代わりに、外で酒を飲んで、平屋に入ってくるようになったのだった。

 「顔にあざのようなものがありますが、何か心当たりありますか?」
 と担当医が、春香に聞いたのは3歳児検診の時だ。
 この時、春香は
 「ソファから落ちました。」
 と応えている。
 このことがあって、春香は躾について気をつけるようになる。体罰を止めようと気をつけるのではなく、体罰の時にはあざが残らないように気をつける、体罰はあくまで躾だという考えは変わらない。春香自身も母親からそうやって躾けられてきていた。
 この検診で春香は保育園の存在を知り、共働きでなくても入園できることも確認できたため、すぐに入園手続きをしている。
 当時、何をやらせても顔や周りを汚すルカには、台所横の床の上で、裸で生活するように命じていた。服も汚すからだった。ネコがいるおかげで、ダイニングは一年中、エアコンで温度が保たれていたことがルカに幸いした。
 保育園に登園するルカを、当時まだ珍しかった通販で揃えた服で着飾らせるのが春香の数少ない楽しみの一つとなっていく。支払いには父親のカードを使った。春香は大抵、通販雑誌か美術雑誌を見て終日を過ごしていた。
 ルカが美術雑誌を見ることも許していた。雑誌を汚したり、破ったりしたときには当然、体罰で躾ける。
 「ここ、汚したろ?」
 頭をつかんで、雑誌に押し付ける。
 「ごめんなさい。もう汚しません。」
 最近、ルカはたいていのことは笑顔で応えるようになった。
 「絶対、また汚すだろ。もう見るんじゃねーよ!」
 ゲームをやるという口実で平屋に来た雄二が、春香と一緒になってヘラヘラ笑いながら、ルカを罵ることがある。春香が特に何も言ってなくても、雄二がルカをからかうように責めることもあった。春香にはこれは許せなかった。
 「あんたは何も言わなくていいから。」
 雄二がルカに手を上げるのは、酒に任せた雄二が自分に手を上げてくるよりも、もっと許せなかった。ルカは春香の所有物だ。言うことを聞く、聞き分けの良いルカは可愛い。そうでないルカはいなくてもよかった。


3
 ルカが小学校に入学し、あまり服や床を汚さなくなると、春香はルカに台所横のカーペットから外に出ることを許した。その方がネコの世話をさせたり、床掃除をさせたり、といろいろ便利だった。風呂場とリビングへの立入禁止は変わらない。
 ネコの世話をルカに任せられるようになったので、週末、春香は一人で横浜の実家に帰るようになった。高校を卒業して、飛び出すようにして家を出た春香が数年ぶりに帰ったときにも、母親は嫌な顔をしただけで特に何も言わなかった。父親はたいそう喜んでくれたが、既に子どもがいることを伝えるとしばらく黙ってしまった。
 雄二が春香に生活費を渡したのは最初のほんの数か月で、今では仕事をしているのかさえ怪しい。自分でカスタマイズしたというクラシックカーは朝から家に停まっているかと思うと、何日も戻ってこないことが増えていた。収入の全くない春香は、今も父親のカードを使いながら、実家に帰る度に現金をもらっていた。

 小学校の入学式には、春香も母親として参加した。
 春香にとって、運転手だけでよかった雄二は、派手なスーツを決め込んで勝手に参加している。雄二に似たせいで横にも大きいのは不満だったが、背が高く、ひと際色白のルカが、自分が選んだ薄紫のワンピースを着て、自分が選んだピンクのランドセルを背負う姿を、春香は世界一可愛いと思っていた。

 1年2組の担任は伊藤良子(いとうりょうこ)先生、小柄でショートカット、私服で会ったら学生に見えそうな先生だった。
 ルカの通う公立小学校は、校区内に規模の大きな児童養護施設を抱えており、様々な理由から素行が荒れている生徒も少なくなかったため、特に接し方が難しくなる5、6年生には経験豊富で体力もある30、40代の担任を置くことが多く、1、2年生のクラスは新人や定年退職前の教師が受け持つことになっていた。
 伊藤先生が最初にルカの様子を気にかけるようになったのは、給食の時間だ。ルカはトレイの上の食器に直接顔を近づけて、身を乗り出すようにして食べる。スプーンは最小限にしか使わない。その姿は動物のそれに似ていた。なのに、顔もトレイもほとんど汚さないという不思議な食べ方だった。
 家庭訪問は「忙しいから」という理由で、母親とは会えなかった。それも何度か電話してやっと聞き出せたことだ。一応、家の場所を確認すために、近くまで行ってみたところ、大きくて立派な家だった。
 5月、交友を深めるための春の遠足で、1年生は学校近くの神社に行った。春は徒歩遠足、秋はバス遠足と決まっている。ルカは遠足当日に休んだ。
 4、5、6、7月と給食費の未払いが続く。とはいえ、地域柄、給食費未払いの家庭は多い。
 さらに気にかけて見てみると、ルカが常に笑顔であることに気づいた。怒ったり、泣いたりが無い。そう気づくと、笑顔が無表情に見えてきた。

 新人教師の伊藤先生にとって、嵐のような1学期が終わり、夏休みになって漸く、いろいろな振り返りや課題点の洗い出しができるようになった。とはいえ、職員会議や2学期の準備に追われ、多忙さには変わりない。
 夏休み中のある日、伊藤先生は自席周りの先輩教師らにルカのことを相談してみた。職員室は校長の方針で、市役所と同じ「エアコンは28度設定」を頑なに守るため、座っているだけも汗がにじむ。
 「うーん、給食費の未納といっても、お家は立派だったんだろ?経済的に困っているとは思えないなあ。」
 「私も見たことあるけど、いつもきれいなお洋服、着てる子だよね。」
 「そうなんです。ちょっと見るくらいではわからないと思いますが、挙動がおかしいというか、おどおどしているというか…。」
 「そんな子は他にもいるからねえ。もしかして、虐待を疑っているということ?」
 「そこまでは…。」
 「顔や体にあざや傷を見かけたことはある?」
 「それはないと思います。」
 「確かに家庭訪問ができてない、というのは気になるけど、これも珍しいわけではないしなあ。母親は入学式には来ていた?」
 「はい。きれいなお母さんと…少し派手なお父さんだったはずです。」
 「両親が来てたって?じゃあ、学年主任に報告するまでにもなってないよ。2学期にもう少し様子を見てみたら?」
 「はぁ…。」
 汗で背中に張り付いたブラウスが不快だった。

 ルカが小学校に入学した1992年、日本では児童虐待に対する法整備が今よりずっと不十分だった。日本の子ども虐待対応は欧米に比べて30年程度遅れていると言われている。伊藤先生たちの会話に「虐待」という言葉が出てきたこと自体、珍しいといえよう。


4
 日本で初めての児童保護に関する法律は1933年に制定された児童虐待防止法である。しかし、この法律は子どもを兵役へと進める富国強兵政策に利用された側面もあり、さらに戦後、海外から児童福祉の概念が導入されたこともあって、1947年に制定された児童福祉法に統合される。児童福祉法は現在においても児童福祉の基本法として存在しているものだが、生活スタイルが複雑に変化していく当時、児童福祉法だけでは適切に子どもを保護することができないという声が上がり続ける。
 そうした声の高まりもあって1990年、当時の厚生省が児童虐待の対応件数の統計を取り始めた。さらに2000年、漸く、児童虐待の防止等に関する法律が制定される。現在、一般的に児童虐待防止法と呼ばれるのはこの法律である。

 児童虐待防止法の第1条、基本理念には「児童の権利利益の擁護に資することを目的とする」と記されている。さらに、虐待は子どもの権利の侵害となること、子どもの成長や人格形成に大きな影響を残すこと、その影響は次の世代にも及ぶことに触れており、虐待対応は「子どもの権利や国の将来の世代を守るための取り組み」であると述べている。
 児童虐待防止法の第2条では、児童虐待を以下のように定義している。
第2条 この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行なう者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に揚げる行為をいう。
1 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
2 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
3 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前2号又は次号に揚げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
4 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家族における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の手続きをしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動を言う。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。

 簡単に言えば、児童虐待を「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」と大きく4つに分けたことになる。
 これにより、特に、親が満足に子どもの世話をしないことも虐待、ネグレクト(育児放棄)にあたる、という認識も広がっていった。世の中の児童虐待への意識の変化としては、1990年に統計開始された、「児童相談所」が対応した児童虐待相談件数を見ていくとよいだろう。
 1990年は1,101件であった相談件数が2001年には2万件超、2018年は15万9850件と、ずっと大幅に増え続けてきたことがわかる。2018年の虐待に関する相談内容の内訳としては、心理的虐待が55.3%、身体的虐待は25.2%、ネグレクト18.4%、性的虐待は1.1%となっている。
 これらの数値は、単純に虐待件数が多くなっていると捉えるべきではなく、世の中の虐待に対する意識が高まってきたことを考慮に入れるべきである。言い方を変えれば、それ以前は虐待とは見なされないまま埋もれていったものも多い、ということになる。
 ちなみに、堕胎や間引き(嬰児殺)は古来より存在していることが、残っている記録から判明している。
 「ある婦人たちは、出産後、赤児の首に足をのせて窒息死せしめ、別の婦人たちは、ある種の薬草を飲み、それによって堕胎に導く。ところで堺の市は大きく人口が稠密なので、朝方、海岸や濠に沿って歩いて行くと、幾たびとなくそこに捨てられているそうした子供たちを見受けることがある。」宣教師ルイス・フロイスの日本史より(完訳フロイス日本史2信長とフロイス―織田信長編Ⅱ・松田毅一・川崎桃太訳)

 「児童相談所」とは、児童福祉法第12条に基づいて、都道府県や行政指定都市に設置義務のある行政機関である。「児相」と呼ばれることが多い。2019年4月1日現在、全国に215か所が設置、そこに国が認めた3827人の児童福祉司、1570人の児童心理司が配置されている。特に2004年の児童福祉法改正で、「児童相談所は市町村の後方支援をする高度な専門機関である」と明確に位置付けられた。
 その設置目的は、厚生労働省が定める児童相談所のガイドライン「児童相談所運営指針」に「子どもに関する家庭その他からの相談に応じ、子どもが有する問題又は子どもの真のニーズ、子どもの置かれた環境の状況等を的確に捉え、個々の子どもや家庭に最も効果的な援助を行い、もって子どもの福祉を図るとともに、その権利を擁護すること」と記されている。
 「最も効果的な援助」を行うために、児童相談所が持つ、他の相談の場と違う最も大きな特徴の一つは、虐待が疑われるケースにおいて「子どもを一時保護する権限」を持っていることである。児童相談所長の判断で、保護者の同意を得ることなく行うことができる。子どもの保護に必要と判断された場合には、自宅に立ち入ることもできるし、保護者の面会依頼を拒否することもできる。自分たちの虐待行為を隠す保護者、何も語らない子どもが多い中、この権限は相当に大きい。
 また、「子どもに関する家庭その他からの相談に応じ」とは、児童相談所が子どもの権利を守るためのあらゆることに対応する、ことを意味している。そのため、扱う内容は児童虐待に関するものだけではなく、その内訳は、多い順に障がい相談、養護相談、育成相談、非行相談、保健相談と多岐にわたる。虐待に関しての相談は「養護相談」の中に含まれることが多い。2018年の16万件にも及ぶ虐待に関する相談数は、なんと、児童相談所が受けた全相談件数の割合としては30%ほどでしかない。児童相談所がいかに多くの案件を抱えているか、ということだ。一人の児童福祉司が担当する案件は平均100件以上と言われており、児童福祉司および児童心理司の増員、児童相談所の増設は、常に急務とされている。近年、ドラマや漫画の舞台として扱われる機会も増えており、その存在が認知されてきているとはいえ、数億円かかる維持費や、地域住民の建設反対など、児童相談所の増設には課題が多い。


5
 児童虐待防止法が制定される2000年以前、さらには児童虐待について統計を始める1990年以前にも児童福祉法の下、子どもたちを助ける制度は存在していた。
 1948年にできた民生委員制度では、子どもの養育に差支えがあるほどの経済的困窮に陥っている家庭は、文房具代や給食費の支給を受けることができた。この場合、民生委員(福祉行政の民間協力者)が定期的に家庭を訪問、子どもたちの環境を確認し、時には親を指導することもできる、とされていた。
 つまり、1980年代後半までの教育問題の中で大きな比重を占めていたのは「家庭の貧困」なのである。親の養育能力や養育する意思の欠如については問題とされていなかった。
 前述したように、1990年代に入り世の中の虐待に対する意識が高まってきたことで、2000年に児童虐待防止法が制定された。この中で、学校の教師は児童虐待の早期発見の責務を負うことになった。虐待が疑われる場合には、専門機関である児童相談所への通告義務もある。「通告ができる」ではなく「通告義務」である。おかしいと思ったら報告しなければならない。
 ルカが小学校に通っていた1990年代、法律はまだ制定されていない。

 2学期になり、運動会の練習が始まった。体が大きいからなのか、ルカは走るのが速く、徒競走の練習では一位を取ることが多い。玉入れの練習でも笑みを絶やさずに励むルカの姿を伊藤先生は気にかけて見ている。しかし、運動会当日、ルカは欠席した。
 「どうしても気になるんです。」
 「あのねぇ、運動会を休んだくらいで、いちいち報告されてもねぇ。」
 「運動会だけじゃありません。申し上げたように、春の遠足も休みましたし、給食費も未払いのままですし、あの家庭には何かしらの問題がある可能性があります。」
 同僚の教師たちへの相談だけではらちが明かないと思い、学年主任を飛ばして、職員会議で報告してみた。はたして、一番に反応したのは学年主任だった。すっかり秋になっているのに、いつも汗ばんでいる。自分と年齢は一回りも変わらないはずだが、「どう見てもおじさん」に見えるのはいつも汚れている眼鏡のせいか。
 「うちの校区は、そんな子が他にもいっぱいいることは伊藤先生もご存じでしょう。そうでなくても、今は遠足のことでやることは山積みなんですよ。」
 「このままだと彼女は今度の遠足も来ないと思います。」
 「福井さん、私も知ってますよ、いつもきれいな服を着ている生徒でしょう。裕福そうじゃないですか。例え、遠足をお休みしたとしても、それはそういう家庭の方針ではないのですか?」
 「福田さん、です。だから、その家庭、お母さんとなかなか連絡が取れないんです。休むという連絡も事務の先生に電話があっただけで、一方的に切られたそうです。こちらから電話しても出てくれませんでした。」
 「一切連絡が取れない保護者だっていっぱいいます。連絡があった時点できちんとした保護者ではないのですか。本人が何か言ってきているわけではないんでしょう?」
 眼鏡越しに見える眉が吊り上がっている。
 「本人が自分から何か言うわけないじゃないですか!何か起こってからでは遅いので、然るべきところに報告を上げるべきではないかと思うのですが。」
 伊藤先生は新任なりに、色々調べたつもりだった。
 「然るべきところ、というのは?」
 ここで初めて校長先生が口を開いた。伊藤先生から見て、学年主任がおじさんならば、校長先生はおじいさんだ。
 「教育委員会ではなく、福祉事務所だと考えています。」
 虐待が疑われる場合、市町村の福祉事務所または児童相談所に報告、相談ができる。学校の場合は福祉事務所に報告を上げることが多い。
 「先ほどから聞く限りでは、私はそこまでの状況ではないように思いますよ。確認できていることが少ないようですし。」
 「しかし…」
 「新任の伊藤先生が熱心に子どもたちのことを見ているのは素晴らしいことだと思います。ただ、熱心さのあまり、一人の生徒にのめりこみ過ぎているようにも聞こえました。伊藤先生が今為すべきことは、クラスの全員を贔屓せずに見ることではないでしょうか。」
 「贔屓なんて!」
 「校長先生のおっしゃる通りです。伊藤先生はクラス全体をしっかり見るように心がけてください。その上で、福井さんですか?福井さんの保護者とは連絡を取ってみて、話を聞いてください。次の議題に進みます。」
 「福田さん」と訂正もできないまま、唐突に学年主任に話を切られた。
 職員会議後、
 「だめだよ。もっとうまく立ち回らないと。校長は定年まで平穏にすませることしか考えてないし、主任は校長の言いなりなんだから。」
 と同僚から言われた。全く納得がいかなかった。


6
 秋の遠足の一週間前の帰りの会、伊藤先生は1年2組の生徒たちに「おたより」を配った。この日は淡いグリーンのスーツを着ていた。ほぼ一年中ジャージ姿の男性教師もいるが、小柄な自分はなるべく、きちんとした姿をしていないと幼くみられることを自覚していた。
 「みんな、いいですか?」
 「はーい。」
 「今、配ったお手紙は遠足のお知らせです。おうちの方に必ず渡してください。」
 「はーい。」
 「今度の遠足はバスで遠くに行きますからね。お手紙にはバスに乗る注意やお薬のことを書いています。あと、お弁当とおやつのことも。特におやつはいっぱい持ってこないようにしてください。」
 「えっ、俺、おやつでお腹いっぱいにしようと思ったのにー。」
 クラス中が笑う。
 ルカもいつも通りの笑顔なのが見て取れた。笑顔の奥はわからない。
 「ダメですよー。きちんとお弁当も持ってくるように、おうちの方にお願いしてください。なので、このお手紙はみんなもお家の方と一緒にしっかりと読んでください。」
 「はーい。」
 必ず「おうちの方」と言うように気をつけている。「おかあさん」や「おとうさん」とは言わない。クラスの中には本当の親と暮らしていない子、両親がいない子もいる。そういう子どもたちが生活している施設へは、遠足などの行事の日について予め連絡が行っており、お弁当やおやつは施設が用意してくれることになっていた。
 「せんせい、さよなら。みなさん、さよなら。」
 「さよなら」の「ら」を言う前に、教室を飛び出していくのはいつもの顔ぶれだ。伊藤先生はそんな生徒たちを笑顔で見送りつつ、ルカに声をかけた。
 「ルカちゃん、ちょっと待ってて。」
 まとわりついてくる少しおませな女子たちをやっと帰して、伊藤先生はルカのところに行った。
 「待たせてごめんね。」
 ルカは自分の机の横で、ランドセルを背負って立ったまま待ってくれていた。
 「あのね、ルカちゃん。先生、遠足のことでルカちゃんに話があるんだ。」
 近くに行くと、黄色のワンピースやピンクのランドセルはきれいでも、頭から少しすえた臭いがすることに気づく。
 「今度の遠足、ルカちゃん、お休みしないよね?」
 ルカは笑顔のまま何も言わない。
 「遠足に行くの、いや?」
 「いやじゃない。」
 「春の遠足も、運動会もルカちゃん、急にお休みしたじゃない?あれって急に病気とかになったんじゃないよね?」
 「なってない。」
 「どうしてお休みしたのかな。どっちも楽しみにしているように見えてたよ。」
 ルカは黙ったまま、笑顔は変わらない。
 「本当のこと、教えてくれないかな。」
 笑顔が固まっているようにしか見えなくなってきた。
 「ママが…」
 「ママが?」
 「ママが行かなくていいって言うの。」
 「どうして?」
 「私がいい子じゃないからって。」
 目が潤んだように見えた途端、
 「もういいの。」
 ルカは踵を返して教室から出ていった。
 -いい子じゃないから?何?

 遠足当日、ルカは登校してきた。
 伊藤先生は教室に入る前のルカを捕まえて、他の生徒にはわからないように彼女のランドセルと用意していたリュックサックを交換させた。リュックには手作りのお弁当と少しのおやつを入れてある。
 あれから何度か詳しい話を聞き出そうとしたが、ルカは何にも言わなくなった。それでも、母親には遠足のことを伝えなくていいから、当日はいつも通りに学校に来るようにとお願いしており、実際に登校してきたルカを見た時は、ほっとしたものだった。

 伊藤先生が自分のやったことの深刻さに気づくのは数日後、ルカの母親から学校に電話が入るようになってからだ。
 最初に電話を取り次いだのは学年主任だった。「授業がある」と言ってもお構いなしに
 「担任が勝手に、保護者である自分に何の断りもなく、自分の可愛い娘に弁当を与えた。何かあったらどうする気だったのか。こんな担任のいる学校には通わせられない。担任を替えるまでは学校に娘は行かせられない。今の担任は解雇させるべきだ。ついては校長を電話に出せ。これが通らない場合は、教育委員会に報告する。」
 という主張を、数時間にわたって続けた。
 実際にこの電話があった日からルカは登校していない。しかも、この電話は毎日のように続き、学年主任だけでは収まらず、教頭、校長先生へと取り次がれていった。担任の伊藤先生とは絶対に話さないと言う。電話は常に一方的であり、母親の都合で昼夜を問わずかかってきた。そのくせ、学校側の言い分は全く聞いてもらえず、直接会うことも、当然、家庭訪問も拒否され続けた。
 理由はどうであれ、弁当を与えたのは事実である、という一点だけで、伊藤先生は2学期をもって1年2組の担任を外された。さらに、「自主的に」と強制されて3学期は自宅待機となっている。
 強制された自宅待機とはいえ、伊藤先生は本当に心身に異常をきたすようになった。学年主任、教頭、校長先生から叱責され続けたこと、何より、登校しなくなったルカがどうなったのかが心配だった。母親が知ったことで、ルカの身に何か起こったのではないか、と自分で自分を責め続けた。翌年度から別の小学校に異動するという話も出ていたが、結局は自分から退職する。

 ただ、このことがあって以来、ルカが学校行事の日に欠席することはなくなる。余計なことはされたくないと思った母親が、弁当が必要な日には、菓子パンを持たせるようになったのだ。
 母親、春香にとって、ルカは自分のものだった。自分はルカに何をしても許されるが、他人がルカに何かするのは我慢ならなかった。


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