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【エッセイ】ノーヒング・マイ・ウェイ

三月末日。
おれは戦っていた。納品と。

長い戦いだった。なにしろ初めて拳を交えてから、ゆうに一年以上が過ぎている。その間に世の中ではオリンピックがあり、戦争が起き、相変わらずコロナは続いているが、そういった世情とは切り離された五畳半の書斎で、おれはひたすらパソコンと向き合っていた。

それはギリギリの旅だった。関わっている人すべてがギリギリのところで、ギリギリまでやっていた。そして泣いても笑っても最後の納期が目前に迫っていたこの頃、すでに極限にあると思われたギリギリはさらにギリギリになって、おれは生まれて初めて、本当のギリギリを知った。

そして奴が現れた──セイトンガーが。

恐ろしい怪物だ、セイトンガーは。今まで何人もの屈強なフリーランサーたちが奴の魔術──なぜか身の周りのものを偏執的に整頓したくなる──に飲まれ、書棚の本をアイウエオ順に並べるなど、「それって今やることなくね?」と思わざるを得ない不条理な行為に及んで、星の数ほどのクライアントを怒らせてきた。

が、セイトンガーのあしらいなら慣れている。こちらはもう十五年以上、この荒涼たるフリーランスの世界で戦ってきたのだ。

今回は実にあっさりと、パソコンの数ファイルを更新日順に美しく整頓したあたりで、セイトンガーを追い払ってみせた。ちょろいぜ。それにファイルの並びも、うん、いい感じ。なんか前より見やすくなった気がしません?

おれは自分の心に「いいね!」を千回押したのち、再び納品への道を歩み出した。

が、今度は奴が襲ってきた──オワッタキガスルーが。仕事が終わりそうな時の安堵感につけ込み、納品前の人々を油断させてゲームで遊ばせたり、喜びの舞いを踊らせたり、昼から酒を飲ませたりする恐ろしい魔物だ。けれど奴が現れたということは、それはすべての終わりが近いという証でもある。

とはいえ、その魔力たるや凄まじい。なにしろ、本当に仕事が終わったような気になってしまう。まだ終わってないのに。確かにもうすぐ終わりそうではあるが、まだ終わっていない。家に帰るまでが遠足であるように、顧客に納品するまでが仕事である。

奴の誘惑に屈してはならない。同じ喜びの舞いを踊るなら、実際に納品が終わってから踊るほうがいいに決まっている。それはわかる、わかるんだ。たが、そういった理性の声とは裏腹に、指が勝手にマウスを動かし……

気がつくと、おれのパソコンのモニタには、たくさんの野菜を両腕に抱えて、せっせと巣まで運んでいくビーバーの姿が映っていた。うわうわ、ゲキ萌ええええ。

ああっ、ニンジン落ちそう。おっとそこ、段差に気をつけて!ヒヤヒヤするなあ、もう。

納品はまだ、終わっていない。

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“コトバと戯れる読みものウェブ”ことBadCats Weekly、本日のピックアップ記事はこちら。“ヤケド注意”のライターこと、チカゼさんによる、映画『パッチギ!』のエッセイ風レビュー。

寄稿ライターさんの他メディアでのお仕事も。映画好きライターの安藤エヌさんが、musitさんに寄稿されたエッセイをどうぞ。

最後に編集長の翻訳ジョブを。おばあちゃんを亡くした少女の不思議な一日を描くアドベンチャー『すみれの空』が、モバイル(iOS /Android)になって登場します!水彩画のようなグラフィックと、ノスタルジーに満ちたストーリーが魅力です、ぜひ。

これもう猫めっちゃ喜びます!