【エッセイ】りんご売り
子どものころ、家にりんご売りが来たことがあった。
今でも存在しているのだろうか、りんご売り。長尺な竿を両肩に渡すようにして担ぎ、その両端には十数個のりんごを入れたかごが吊るしてある。そして「りんごだよー、甘いよー、美味しいよー」と声を張り上げて売り歩くのだ。あのころは焼き芋、チャルメラ、ポン菓子、金魚売り、竿竹売りなど、いろんな行商屋を見かけた気がする。
くだんのりんご売りは白い半袖シャツにジーンズ姿の、ちょっとやさぐれた痩せぎすなお兄さんだった。
なぜその容貌をはっきり覚えているかというと、このお兄さんが庭で遊んでいる私を見つけるやいなや、ずかずか敷地内へ入り込んで来て、「ねえぼく、りんご買わない? りんごりんご」とものすごい勢いで売りつけてきたからだ。
まだ幼かった私は、風雲急を告げる状況の変化に対処できず、見知らぬ大人がひたすら「りんごりんご」と大声で迫ってくるのがただ恐ろしくて、何も言わずに家のなかへ逃げ込んだ。
窓越しに、呆然と佇んでいるりんご売りが見えた。心なしか全身を震わせている。そして田舎の子どもに無視されたことがよほど悔しく、りんご売りとしての矜恃が傷ついたのか、急に火がついたように、意味不明なことを喚き散らしながら暴れだした。
りんご売りの唐突なぶち切れっぷりに、私は目を丸くした。家には誰もいない。怖かった。今にも家のなかへ飛び込んできそうな荒ぶりぐあいだ。
けれど私は恐ろしいながらも、暴れ回るりんご売りに見入ってしまった。あれだけ激しく動いているのに、かごのなかのりんごを一個も落としていない。長尺な竿を担ぎながら軽やかに身を翻し、虚空を蹴っているその姿はまるで、なにかの演舞みたいだった。
ひとしきり暴れたのち、りんご売りは嵐のように去っていった。庭にはいくつか干してあった傘が、蹴飛ばされて花のように散っていた。
そんなことを、実家から段ボール箱で大量に送られてきたりんごを見ながら思いだした。こんなに食べきれないのにな。けどわかっている。これは母の愛なのだ。母の愛は経済すら回すのだ。だから黙って受け入れるしかない。
一瞬、あのりんご売りから大量のりんごを買っている母の姿が頭に浮かんだ。
母は笑っていた。
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