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【エッセイ】エレベーター
人目を忍んで死体でも運んでいるような、後ろめたい気分になっている。そのわけはと問われたら。
マスクをしていないからだ。
なんでかというと、マンションの七階にある我が家から二階のゴミ捨て場までゴミを出しに行くだけだからで、しかも今はもう真夜中近いので、ふつうはゴミを持って玄関を出て、エレベーターに乗り、二階で降りてゴミを捨て、再びエレベーターに乗って自宅に戻るまで、誰にも会わない。
そのはずだった。
ところが両手にそれぞれゴミ袋をぶら下げ、無になってエレベーターを待っていたら、何ということか、同じ階の住人が廊下の向こうから、やはり両手にゴミ袋をぶら下げてカツカツ歩いてきて、ぺこり、と会釈をしてエレベーターの待ち人に加わった。
向こうはマスクをしていた。
コロナ禍の今、マスクはもはや顔の下着と言ってよく、外でマスクをしていない輩はパンツを穿かずに歩いているような破廉恥もので、激しく後ろ指を指され、ゴミ虫でも見るような目を向けられる。
マスクをしていないだけで人格や知性までも疑われ、無能の烙印を押されるのだ。
ごまかさなけば、と本能的に思った。
だから私はそう、まず、鍋が火に掛けっぱなしになっている光景を脳内に描いた。煮込みだ。煮込み。煮込みで頭のなかを埋め尽くす。おれは今、煮込みを作っている。鍋で。いろんな野菜が煮えている。カラフルだ。ぐつぐつ。近づく猫。流れる汗。進むタイマー。
そうとも。おれは夜中に急に思い立って、煮込みを作っていた。そしたらふと、ゴミで溢れているゴミ箱が気になってしまい、夜中だし、どうせ誰にも会うまいと決めつけて、マスクをつけずに外へ出てきたのだ。
慌てていた、とも言える。そう、おれは慌てていた。ふだんはちゃんと外出時はマスクをしているし、挨拶だって立派にできる男だ。
こうやって自己正当化のための想像をたくましくしていると、不思議なもので、本当に今じぶんが煮込みを火にかけているような気になってくる。
やばい。火を消さないとやばい。火を消さないでゴミを捨てに出てきちゃったよ。あらま。戻らなきゃ。今すぐに。
こうして「煮込みを作っている途中でうっかりさん、マスクもつけずにゴミを捨てに来てしまったドジなおれ」のイメージを頭に浮かべながら、私はいかにも「あ、いけない!」といった顔を装って、ぺこり、と住人に会釈したのち、後ろ向きに滑るように自宅へ引き下がった。
頭の中では今まさに、煮込みが吹きこぼれようとしていた。
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