〝小室眞子さん〟の結婚に思う

 秋篠宮家の長女眞子さんと、小室圭さんが結婚した。慶事で始まった4年前から一転、週刊誌やワイドショーを中心に、批判的な報道が続き、〝みんなの大好物〟となった。でも、これにより、本当に考えなくてはいけない皇室のことが、全て棚上げされているように思う。

 この問題で最も大事なことは何なのか。いずれも私見だが、備忘録として残すことにした。

 まず、眞子さん、結婚おめでとう。小室さんもよかったね。
 これから、頑張ってね。
 これは、別に2人に対して思い入れがあるからではなく、街でたまたま会った古い同級生から聞いた結婚の知らせに、反射的に言う「おめでとう」に近い。人として、よく知らない人の結婚でも、あいさつの代わりに「おめでとう」と言うのと同じだ。
 乾いているかもしれないが、皇室という立場をいったん置いといて、2人だけを見た今回の結婚というものへの率直な私の感想だ。
 おめでとう。よかったね。
 ここからは、小室眞子さんになる前の、秋篠宮眞子さまだったころを振り返りつつ、皇室制度に触れながら記していきたい。

 【憲法と皇室典範】
 まず、ここから入らないと意味がない。小室さん?金のトラブルじゃないの?いやいやいや、、、。別に金トラブルは誰にでもある。そもそも、全ての結婚が賛意の下に開かれるものでもない。
 さまざまな事情があるのはみんな同じだ。
 しかし、これは皇族の結婚。皇室の中の話をする必要がある。
 皇室を語る上で切り離せないのは、憲法と皇室典範。なぜそんなルールを作る必要があったのかということを、おさらいしたい。

 ▼憲法
 憲法1章〝天皇〟は、天皇の地位や仕事についてが記されている。ここで重要なのは、この1章が天皇のみならず、皇室全体にも効力が発揮されている節があることだ。その根拠としてあげられるのが、以下の条文だ。

 2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」

 ここで初めて登場する「皇室典範」は、5条にも記載されている。皇室典範とは、皇室の色々なルールが書かれている一般の法律。この皇室典範を読むと、天皇だけではなく、皇族のことも記されていることが分かる。どれも全て、現代では考えられないような〝自由をしばる〟作りだ。

 そもそも憲法1章〝天皇〟とは何なのか。

 憲法1章を読むと、今では大よそ考えられない、非人道的な側面が多い。1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。2条は皇位が世襲であることを示している。今、日本に暮らす私たちには職業選択の自由がある。2条は、皇位を世襲で受け取る側には、拒否権がないのと同じこと。皇位継承権1位の皇族には職業選択の自由はない。
 明らかに3章にある基本的人権とは乖離している。

 つまりどういうことかというと、1章は、天皇に関して、その権威を封じ込めるための箱のような役割をしており、「天皇に関しては、憲法上の人権を無視した法律を作ってもよいですよ」ということが書かれている。天皇の権威の乱用などを防ぐために、憲法上で天皇を封じ込める必要があったということだ。

 ▼皇室典範
皇室典範を読むと、その内容は天皇のことだけではない。多くを記すのは長くなるので割愛するが、中身は大よそ、皇室全体の私権を奪うような作りになっている。これは、憲法1章は、「天皇(や皇族)に一定の制約を課しても良く、またそれと同様に非人道的とも言える立法も可能」だから。憲法に則り、皇室典範は成り立っている。
 つまり、憲法1章の中にいる皇室の方々には、我々のような3章以降の基本的人権は当てはまらない

 ▼皇室の人たちに人権はあるのか
 「憲法上の」と加えることが必須ではあるが、私は皇室の方々に憲法上の人権はないと考えている。理由は
・そもそも憲法1章が、天皇の基本的人権を無視したり、それを度外視した立法を可能としている。
・それにより法整備された皇室典範は、基本的人権を無視した作りになっており、その範囲は皇室全体に及んでいる。
 という2点から。皇室には憲法上の基本的人権は適用されないと考える。

 ここで断っておきたい。それは、「皇室の方々には、当然のように人権がない」ということを私が推奨しているわけではないということだ。
 立場の壁を越えてでも、人は皆、当然のように人権が認められるべきだと思っている。人として扱われるべきだと思っている。
 一方、今回の問題を考える上で、憲法の人権と、世間一般の人たちが考える人権を区別しなくてはいけない。
 私が言いたいのは、皇室には前者は無いが、後者は皇室にもあってほしい ということ。
 世論を見ると、一足飛びに「同じ人間なのに可哀想」という論調が続く。その前に、なぜこのような制度になっているかを考えないといけない。問題があるならば、眞子さんや小室さんではない。制度に問題がある。

  ▼なぜそうなのか
 話をもどす。なぜそのような皇室の方々から自由を奪う必要があったのか。ということを考える必要がある。
 諸説はあるが、個人的に一番有力だと思うのが、戦中、時の政府が天皇や皇族の権威を利用し、国を戦争に突き進ませた苦い経験があることから、権威ある皇室が勝手に動いたり(謀らずともその権威が振りかざされる恐れがある)、またその権威を利用する輩が表れたり(皇室が言っているから と)することを恐れたのだろう。
 権威の利用を、皇室側からも国民側からもできないようにすること。そのためには、皇室の自由を奪う必要があった。

 では、最初から権威を持たせるような作りにしなければいいのではないか。
 当然の発想だ。しかしこれにも、歴史が大きくからんでいると考える。
 終戦直後、新憲法制定時は、国体(ざっくり言うと、日本における考え方は、天皇を中心とした国を作ろうということ)を守るという概念が色濃くっていた。
 戦後、民主的で近代的な国づくりのために、主権者を国民に変えたり、基本的人権を認めるような記述を新しい憲法に盛り込んだ。
 私は昔から一つ気になっていたことがある。どうして国民主権と言いながら、法律の公布や総理の親任は、政治関与できない天皇が最後の〝締め〟を務めるのだろうか。
 考えられるのは先述の国体を守るという思想だろう。戦後間もない頃は、主権者の国民や、その国民の代表たる政治家だけでは、法律などのルールや、総理などのリーダーを決めるに当たり、その正当性を維持する確証がなかったのではないか。
 政府や国民だけでは、決定事項を正しいと思えない。その担保が欲しい。それが天皇が今も行う国事行為の存在意義だ。
 だからこそ、権力を剥奪された天皇家ではあるが、一定の権威を残す必要があった。権威がなければ、新しいルールやリーダーを国民が納得できる形にならない。といったところか
 その権威の代償が、自由の剥奪 ということだろうが。。。なんとも可哀想な一族だ。

 ▼婚姻の自由は。。
 上記を踏まえて考えると、皇族に憲法の婚姻の自由は当てはまるのか。というと、これは当てはまらないだろう。3章の範囲なのだから。
 ではなぜ眞子さんが今回結婚できたのか。それは皇室典範によるところだ。
 皇室典範は、皇族の結婚について、男性皇族の場合は総理を議長とする皇室会議の議決を経る とある。つまり、民意が介入する余地を残しているということだ。極論すると、お妃候補を否決することもできる。
 女性皇族の場合はどうか。皇室典範には、天皇及び、男性皇族以外と婚姻する場合、皇室を離れる、とある。つまり、皇室会議を開催する必要がなく、女性皇族は〝結果的に〟交際相手との合意があれば結婚できる ということになる。結果的に憲法と同じになっているが、その中身は大きくことなると考えられる。
 皇嗣秋篠宮が、ことあるごとに「憲法は両性の合意に基づき婚姻を認めている」ということを持ち出している。あれは少し異なっていて、恐らくは娘にそれが適用されないことを理解している。
 一方、次の天皇として、自分たちこそ最も守らなくてはいけない憲法に、自ら家族は適用外と言え、婚姻の自由が記載されている。娘に適用されている、されていないが問題ではなく、婚姻の自由そのものを否定することにつながり、広くは憲法の考えにノーを突きつけることになる。皇嗣が会見で述べる「婚姻の自由」の背景には、そんなことが考えられる。ちょっと強引かもですが。

【なぜこの結婚がこんなに批判を受けたのか】
 ▼ダーティー小室
 本題に入ろう。どうしてこの結婚がこんなに批判されたのか。金銭トラブルについてや、疑惑については、週刊誌を読んでほしい。どこまで真実か不明だが、そこが問題ではない。
 問題は〝何か良く分からないダーティーな男が、皇族と結婚しようとしている〟ということだ。
 個人的には、女性皇族の結婚は皇室会議を経る必要がないため、別に誰と結婚しても良いと思っているが、多くの国民は、小室さんというダーティーな男が、大好きな皇室のプリンセスと結ばれることが、嫌だったのだろう。何か嫌。その「何かが各々の皇室観ということだ。
 強いて憲法に触れるなら、もともと天皇の権威を利用するようなことがないような仕組みで作られたものが憲法であり、皇室の権威利用は御法度。。
 ただ、小室さんが、皇室の権威を利用して、上昇しようとしている、、という風にでも受け取られた といったところだろうか。

 ただここで一つ、大きな問題がある。多くの国民が疑問視していることを、眞子さんが突き進もうとしていることだ。これは、平成流とされた考え方にマッチしているのか。。

  ▼国民に寄り添、、、てる?
 2016年8月8日の上皇のビデオメッセージには、象徴とは国民に寄り添うこと とある。シンボリックな意味での象徴ならば、ただそこにいるだけで良いのだろうが、そこは生身の人間。何か仕事が欲しいと思うことは当然だろう。
 そこで考えたのが、国民に寄り添って、共に歩むこと。平成流と言われたその姿は、多くの国民に共感された。国民に寄り添うという上皇の象徴観や、その確立過程に、疑問があることや、私自身、少々動きすぎ、やり過ぎなのではと思う点は置いといて、多くの国民に「国民に寄り添う」は共感された。それは事実だろう。
 国民に寄り添う姿は、他の皇族にも求められるようになった。そしていつしか、皇室は清貧であり、道徳的でなければいけない という空気感に変わった。
 今回、小室さんの疑惑の真偽は置いといて、国民が「こいつで大丈夫?」という疑問を持ったのは間違いない。皇室の権威を利用するかのような疑いがある男が、みんな大好きな眞子ちゃんの旦那さんであってよいはずがない。そう思ったのだろう。その国民の思いを無視して貫いたこと。
 眞子さんが共感されている「国民に寄り添う」という皇室像と真逆を進んだこと。
 平成で築いた象徴像を壊したのは事実だ。平成流の是非ではなく、平成で培った皇室像、象徴像に傷を付けたのは、間違いないだろう。

【記者会見】
 ▼期待していた
複雑性PTSDという言葉の力はすさまじく、批判はどんどん沈静化していった。言論統制とも取れるが、そこはまた別の機会に話そう。とにかくこの会見には期待していた。質疑応答で、記者と議論する姿が見られると期待していた。
 眞子さんが自身の口で、皇室とは何かと考えるかや、象徴や天皇制についてどう思うか というのを、語るチャンスだった。
 閉塞感が皇室にあるのは間違いない。基本的人権がないのだから。でも、自らを貫く姿をみんなに見せることで、何が言いたかったのか。
 ただただ、「好きな人と一緒になりたいの、もうぅ!」というわがままで終わることなく、整然と、明瞭に、納得できる形で説明したら、皇室の在り方は変わると思った。彼女にはその力があると思っていた。だからこそ本当に残念だった。
 雑誌の質問に対し、恐怖心を覚えた ということらしい。
ただ、心の病を公表したのならば、宮内庁もハンドリングするべきだったのではないか。宮内庁が 「この会見が眞子さんにとって、言い訳ではない何かを語る最後の、絶好の機会」と捉えているかどうか。今回、そうは思っていなかったということが、白日の下となった。
 皇室制度の根幹に触れる話。会見を開き、しっかりと説明し、共感されたら、批判から好感へと大きく変わる可能性があった。
 皇室そのものも変わり、若い皇族にとって、光となったはず。
 この結婚に対する世の中の見方も変わると思った。
 小室さんの金銭トラブルは勝手にやってほしい。大きな問題ではない。
 何度も言うが眞子さんが、自分の皇室観を語る最後のチャンス。
その機会がなくなってしまったことはとても残念だった。

  ▼会見の内容
会見は、質疑応答が文書になった段階で、予想していた通りの言い訳が続くばかりの内容だった。ただ、一番気になったのはそこではない。

  眞子さん「(中略)圭さんが独断で動いたことはありませんでした。例えば、圭さんのお母さまの元婚約者の方への対応は、私がお願いした方向で進めていただきました。圭さんの留学については、圭さんが将来計画していた留学を前倒しして、海外に拠点を作ってほしいと私がお願いしました」

 ここだ。目玉が飛び出るほどびっくりした。
誰に、何をお願いしたのだろうか。眞子さんが、誰にお願いしたのだろうか。圭さん「海外で生活できるよう、頑張って」とだけにお願いしたのだろうか。
 また、金銭トラブルについても、元婚約者への対応は私がお願いした方向で進めてもらった とある。
 これはどういうことか。皇室の人間が、一般家庭のどうでも良いごたごたに、首をつっこんだのだろうか。確かに、廃止された皇室令には、皇室による民意の介入の可能性を残す法令がある。しかしそれは、先述の苦い反省の中の一つとして、戦後廃止されている。今ではナンセンスな考え方だ。

 皇室の人たちは、いくら自分たちが「普通の人」を装っても、絶対に普通の人ではない。気持ちとしては、普通に扱ってあげたくとも、それは無理な話だ。
 頂き物を「コレ美味しいね」と言えば、送った側は喜んでもらえたと、またプレゼントするだろう。
 「あの本読みたい」とつぶやけば、どこからともなく手元に届くだろう。
そしてその本は、仮に相当古いものであっても、再び売れ始めるだろう。実際にあったことだ。
 昭和天皇が昔、好きなテレビ番組を聞かれても答えなかったというエピソードがある。それは、自身が何を見ているのかが公になれば、その視聴率が跳ね上がり、多くに影響をもたらすことを分かっていたからだ。
 自らに権威があるということを理解していたということだ。

眞子さんは一体何を言っているのだろうか。
自らに権威がないとでも言うのだろうか。
誰に何を頼んだのか分からないが、それが仮に、眞子さんのお願いを叶えられる大人の耳に入った場合。。どうなるかは明白だ。それは叶う。
生まれた時から籠の中にいたのだろうが、籠の中で全てを満足に当たり前のように生きてきた彼女にとって、それが権威であり、簡単に振りかざしてはいけないものだということを理解したのだろうか。
 と、同時に、そのような皇室の基本的な考え方を理解していない眞子さんが、生家でそれを学んでいたとは言い難く、次、その次の天皇がどうなってしまうのか。とても不安だ。

仮に、眞子さんが権威があるということを自認し、振りかざしていた場合。。考えただけで恐ろしい。
 冒頭で書いた「権威の乱用」をまさか皇室の側が、無意識にやっているとは。。開いた口がふさがらなかった。

  ▼ビジネス「寄り添う」
 会見を終え、ホテルから出てくる映像を見て、びっくりしたことがある。髪を下ろした眞子さんは、待ち受けた人たちに愛想を振りまくこと無く、車の窓は閉まったままだった。かつての眞子さんなら、あり得ないだろう。
 一般人になったのだから、、。ということならば、これまでカメラの前で振りまいてきた笑顔は、偽りのビジネス笑顔ということになる。
 本当はこんなことやりたくないのに。皇族だと求められるから、仕方が無く手を振っている。
 だとするならば、皇室の人たちに国民は馬鹿にされている。「こいつら、こうやれば喜ぶんだろ」ということだ。
 リアルアナ雪と言われた姉妹のハグも、別に家の中でやれば良い。
「感動した」と言われたいため、カメラの前でやっているようにしか見えない。こうやったら喜ぶのだろう と思われ、それが実行され、そして奇しくも、喜んでしまっている国民がいる。
 国民は、馬鹿にされていることにもっと怒るべきだ。

 象徴という良く分からない役目を担う重要性。清貧さや道徳性という、個人の性格の部分が象徴に求められ、その象徴という言葉は、憲法という国のルールに記載されていること。「良い子であるべき」ということが、国のルールに取り込まれていること。それはとても気の毒だと思う。
 ただいずれも誰も頼んでいない。皇室側が勝手に決めて、勝手に清貧や道徳性ある人たちになっているだけだ。(そこに喜ぶ人がいるのは事実だが)

【まとめ】
▼ビデオメッセージで言いたかったこと
2016年8月8日、上皇が送ったビデオメッセージは、退位の意向を示しただけでなく、もっと大きなことを記した。
 ・象徴ということを、私は国民に寄り添うことだと考えている
 ・これからも、象徴ってこのような考え方で良いのか
 ・それを、孫の代まで、その先まで継承させて良いのか
 ・そもそも、私たちはこのまま象徴で良いのか
 ・私たちって、いて良い存在なのだろうか

そのいずれも、私たちは満足に回答していない。

  ▼しっかりと考えを
皇室のことを考えた時、大きな問題をはらんでいるのが今回の結婚だった。
 小室さんのちょんまげ、愛しています、必要な選択―。なんでもいい。
全てあなたたちの思うがままでいい。
 ただ、いずれもが、皇室が抱える本来の課題を浮き彫りにはせず、そのキャッチーな言葉といじりやすさが先行し、本当に考えなければいけないことを、深く、深く奥に押し込めてしまった。

そしてこのような、まともに何も答えない皇族がいるという皇室が、果たして必要なのかどうか。
象徴天皇制というものを生身の人間が担うこと。その意味を私たちはもっと考えるべきだ。
8・8ビデオメッセージで私たちは何も考えず、礼賛してしまった。
今回、眞子さんが投げたボールは、まだこっちにある。議論に議論を尽くすべきだ。

 ▼可哀想な人たち
 今回非常に残念な結果になってしまったことは先述した通りだが、人間としての自由や尊厳が制限されている皇室の人たちには、やはり同情する。と同時に、小室さんの鋼のメンタルにも感服する。お似合いだと思う。この2人は。
 憲法1章や典範、制定までの時代背景を考えると、皇室の人権排除は仕方が無い部分がある。でももうあれから何年経過したと思っているのか。
 基本的人権は多くの国民に浸透し、言論は比較にならないくらいオープンになった。国体という考え方は薄れ、国民が「自由や人権、個人の尊厳」を当たり前に有することができる時代になった。
 皇室の人たちが、自由意思を発するようになるのは、当たり前のことだ。彼らだって生身の人間だ。私たちと同じだ。制度と人権の矛盾が生じて、当たり前だろう。

 この問題を論じる時に、「眞子さんにも自由がある」「ジェンダー的観点からそれはおかしい」…などなど、人権が憲法に導入されて75年が経過したならではの、自由な意見が続く。良いことだが、それは本質ではない。皇室のことを本当に考えているのなら、これが皇室制度を組み込んだ憲法と、皇室の人たちの人権の話だ。
 それを考えずに、ただただ、リベラルっぽいことを言っている人たちは、思考を停止したと同義だろう。今回、あまりにもそのような言論が多くて驚いた。リベラルを語るのは簡単だ。なぜなら皇室の人たちは、頭の中はリベラルであっても、とりまく環境は超保守。そんな人たちを救うかのようなリベラルな言論は、何も考えていないということと同じだ。皇室の訴えに耳を貸さず、それを利用し(これも権威の利用?)、自分たちのリベラルな論調を補完する材料にしている。

これは、わがままお姫様の脱出劇かもしれない。賛否いずれもいくらでもできる。ただ、賛否がどうとかという次元ではない。
 象徴天皇制というものが一体どんな役割するのか。それが本当に必要なのか。違う在り方で象徴天皇制は成立しないのか。
 今後私たちが皇室に何を求めるのかを考える契機になっている。しっかりと一人一人考えてほしい


そして今回の結婚で最も感じたこと。

それは もう、皇室の人たちを、解放してあげよう ということだ。

私たちはもう、あなたたちがなくとも、大丈夫です。



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