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現地コーディネーター:第3話
カズマは久しぶりの深い眠りから目を覚ました。辺りは薄暗く朝か夜かの判断もつかない。隣にシャーロットの姿はない。セントラルヒーティングが壊れているのか、吐く息が白くなる寒気に体を震わせ、フリースの毛布に身を包んだ。毛布から漂うシャーロットの残り香は春の花のような甘くて温かい香りを放っていた。
冬の淡い光がブラインドの隙間から細く漏れている。カズマは覚悟してベッドから跳ね起きると窓を開け、窓台に放置されたシケモクに火をつけた。一服するとその煙が光に照らされて揺らめきながら空の藻屑になっていく。カズマはその儚い美しさに見惚れた。
吸い終わるとわずかな斜陽をできるだけとりこむべくブラインドを全開にする。そして脇の壁にかけられたコルクボード製の全米地図をじっと眺めた。地図に指を添えて、ジェフから指定された目的地のメンフィス、そしてグランドキャニオンをたどる。ほぼ全米横断じゃないか。アメリカには長く住んでいるが、その大部分をニューヨークで過ごしたカズマには距離感がよくつかめなかった。
ジェフは飛行機を使っても良いと言っていたが、アメリカの広大さを肌で感じるには車で行くほうがいいだろう。自分が調子よく稼いでいた時期に勢いで買った旧型フォルクスワーゲンのビートルにもしばらく乗ってあげていない。この仕事で自分はまた運気を取り戻すのだ。そう考えるとしばらく自分の頭を覆っていた重たい雲が少しずつ晴れていく気がした。
リビングルームの向こうからアパートの鍵を回す音が聞こえる。カズマは猫のように軽快に玄関に向かい、ドアが半分ほど開くと向こう側に立つ華奢なシャーロットを引きずり込むように抱きしめた。
シャーロットはびっくりしてキャッと声をあげると同時に白い吐息を漏らす。小高い鼻先まで巻きあげた白いマフラーと深く被った赤いニット帽の間から少しだけ出た純白の顔が紅潮している。
「Aren't you supposed to be working today? (今日、仕事じゃないの?」
シャーロットはマフラーをほどきながらエメラルドグリーンの大きな瞳でじっとカズマを見つめた。
「I quit (辞めた)」
久しぶりの英会話だー彼女と昼夜逆の生活を送るようになってから、ちゃんと会話できる機会は少なくなっていた。
「何か新しい仕事が見つかったの?」
シャーロットは不安げにカズマの顔を見つめた。
「うん。まあ短期だけどね、結構おいしい仕事かな」
「本当?よかった!どこかの広告?」
シャーロットが知る限りカズマにとっての「おいしい仕事」は企業広告の壁画製作だった。
「もっとおいしいかも。絵とは一切関係ないけど。二週間弱で一万ドル」
シャーロットは大きな目を極端に細め、怪訝そうにカズマを覗き込んだ。
「まさか、ドラッグ絡み?」
カズマは思わず吹き出してしまうが、実際に昔そんな事をして小銭を稼いだ時期があった事を彼女も知っているので、バカげた発想だと責める事はできない。
「ジェフっていう東京に住んでるアメリカ人の話ってしたっけ?」
「グランドキャニオンの近くで会った、元ヒッピーの人?」
過去の些細な会話の断片を彼女が覚えてくれている事が嬉しい。
「そう。彼の息子の旅行をコーディネートするって仕事。クールだろ?」
シャーロットにはその仕事と金額の釣り合いが飲み込めず、フランス人形のようにきょとんとしてカズマを見つめる。
「大丈夫だよ、怪しい仕事じゃない。オレの信頼している人だ。一万ドルの価値なんて人によってそれぞれなんだよ。オレみたいに半年分の生活費だと思う奴もいれば端金と思う奴もいる。先月も一晩で一万ドル使った客がいたって言ったろ?」
シャーロットは自分を納得させるように相槌を打った。
「とにかくよかったわね。その旅ってどこに行くの?いつから行くの?」
「メンフィスとか、グランドキャニオンとか。…明後日からなんだけど」
「WHAT? WHY?」
シャーロットの顔がみるみる紅潮していく。
「私の誕生日パーティーはどうなるの?ペンシルバニアに行く予定は?私の両親に会う予定は?」
シャーロットは感情を抑え切れずに捲し立てた。
「ごめん。君の実家にも誕生日パーティーにも今回は行けない」
「何で相談もせずにそんなこと引き受けちゃうの?」
「このチャンスを逃したらいつまでもオレは惨めなままなんだよ」
シャーロットの目に段々と涙が浮かんでくる。
「お金なら何とかなるっていつも二人で話してたじゃない。家賃だ
って、カズマがちゃんと稼げるまでいいからって。信じてるから。なのに最近お金の事ばっかり。そんなのカズマじゃないわ!」
カズマは少しの罪悪感と同時に苛立ちを覚えた。この「超大国」の裕福な家庭に生まれ育った可愛い白人に、そして望み通りの仕事もすんなり射止めた如才ない女に、何も持たず唯一のとりえさえ失いかけた惨めなアジア人移民の気持ちがわかるものか。
その思いは頭の中で止めたつもりだったのに、ほとんどがそのまま口をついて出てしまっていた。シャーロットの表情は怒りを半分残し、もう半分は同情に変わっていた。
「お前だってこんな男を両親に紹介するのは恥ずかしいだろ?」
なぜこんなことを言ってしまうのだろう。なぜ自分を一番理解してくれる人間に卑屈にならなければならない?
「Fuck you with your pride, asshole(あんたのプライドなんかクソよ)」
シャーロットは大きな瞳に涙を溜めながら罵ると、つい先ほどまでカズマが寝ていたベッドルームに入りドアを思い切り閉めた。
リビングに残されたカズマは力なくカウチに座り込んだ。背後の壁には出会ったばかりの頃にシャーロットが撮ったカズマの写真がフレームに入って飾られている。キャンバスに絵の具のチューブを塗りたくる、鬼気迫る表情。その瞳には我ながら確かな炎が燃えていた。今の自分の顔がどうなっているかは見たくもなかった。
***
「どうせお前には自分のやりたい事がわかってない」
父が自分に放った言葉がエドウィンの頭の中で響いていた。その通りだ。彼の言う事を聞いていれば生活は保障されるし、彼のおかげで自分は就職活動という重圧からも逃れられた。自分一人では社会に押しつぶされてしまうだろう事もよくわかっている。
そして今、自分はその父ジェフに言われるがままニューヨーク行きの飛行機に乗ってしまっているのだ。
エドウィンは窓枠にもたれ、小さな窓の外に目をやった。離陸に向けて機体が滑走速度を上げる。そして成田の大地をどんどんと下方に遠ざけ、分厚く重たい雲に飛び込んだ。
隣に座る若い女の二人組は今向かっている「自由の国」への出発にはしゃいでいる。ニューヨークで行きたいブランド店、「セックスアンドザシティ」の撮影ロケーションになった場所、どんな人種の男がタイプかー話題のつきない彼女たちが羨ましくさえある。
エドウィンは防音機能付きのゼンハイザーのイヤフォンを装着しスマホ内の曲をブラウズした。そしてブライアン•イーノが八十年代初期にリリースしたアンビエントの名盤を選び再生ボタンを押した。自分が今飛行機に乗っていることを忘れてしまいたかった。そして目を閉じ、深遠な音波とひたすら単調にループされるメロディに心を預けた。
「ビーフオアチキン?」
キャビンアテンダントの呼びかけで目を覚ます。不愉快だ。
「チキン」
中年で厚化粧のCAは大げさな笑顔で相槌を打つと、食事トレイを誇らしげにエドウィンのテーブルに置いた。硬そうな米にのったテリヤキチキンと、脇にくたびれた冷やうどんと枝豆が貧相に並んだだけだ。さすが聞きなれない航空会社の格安航空券。エドウィンは再び父ジェフに憤りを感じながら小さなうどんの固まりを勢いよくすすり込んだ。
「Do you like UDON?(うどんは好きですか?)」
ひそひそ話をしていた隣の女が嬉しそうに話しかけてくる。特徴のない風貌。きっと平凡さは顔だけではないのだろう。その奥に座る連れの女も好奇な目でこちらを見て微笑んでいる。
「Yes」
外人扱いには慣れている。こちらもできるだけ会話を続けないように一言で返すと二人は顔を見合わせて意味深に微笑みあっている。
「Did you enjoy Japan?(日本の滞在は楽しかったですか?)」
エドウィンは心の中で大きなため息をついた。
「No」
女二人は少し気まずそうに顔を見合わせ、まるでこの時間が一切存在すらしなかったかのように自分たちの食べている貧相な食事の一つ一つを日本語で品評し始めた。
エドウィンは同じアルバムをまた最初から再生し、音量を先ほどより少し上げて残りのチキンと枝豆を飲み込むようにかきこんだ。
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