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現地コーディネーター:第7話

 四十二丁目の駅に着く。駅構内の人混みの量はブルックリンのそれと比にならない量だ。新宿駅などの人混みと比べても、数は劣るものの圧倒感が違う。ここでは多人種が競い合うように四方八方からそれぞれスピードで我が物顔に進んでいくのだ。右側通行などの暗黙の了解も無ければ、皆に共通した歩きのリズムやペースも全く無いし、雑踏の真ん中で堂々と立ち話に興じる者もいれば、そっと紛れこんで急に手を差し伸ばしてくる物乞いもいる。

 白人、白人、黒人。中東系、ヒスパニック、白人、黒人、不明。
エドウィンは通り過ぎていく人種を無意識に頭の中で並べた。そして自分はアジア人として数えられるのか白人に数えられるのか考えた。でもそんな判別をする者さえいないのかもしれない。今まで常に付き纏っていた、自分だけ目立っているのではという過度な自意識が消え去っていくのを感じた。

「なんかみんな自由な感じですね」
 エドウィンはふと言葉を漏らした。
「そう?どこが?」
「周りの事なんて気にしている人がいないように思えて。ルールとか常識とかまるで存在していないみたいで」
「当たり前だろ。元々人間はやりたい放題でいいんだよ、そこに問題起こす連中がいるからルールができたんだ。ルールが先にあったわけじゃない」

 エドウィンは妙に納得した。常識的な社会人になる事が自分も含め多くの日本人の指針である。だがここではやりたい事をやる事が何よりも重んじられているようだ。

 駅を出るとそこかしこで観光客が写真を撮っている。周りを飛び交う言語は様々で、英語での会話が少数派に感じるくらいだ。しかしどれが地元民で観光客かというのはエドウィンにも大体区別がついた。しかめ面で早歩きなのは大抵ニューヨーカー。舌打ちしながら自分の前をズンズンと歩いて進むカズマもその一人。エドウィンは彼を見失わないように必死で追いかけた。

 大通りが交差する階段広場のふもとでカズマは突如立ち止まる。そして数秒遅れで追いついたエドウィンに目配せをした。視線の先にはてっぺんから爪先まで目まぐるしく光を放つ電子広告で埋めつくされた建物。尋ねるまでもないーこれがタイムズスクエアだ。

 エドウィンは派手な発色のビルボードと、その下を行き交う人々の波を交互に眺めた。洪水の様に押し寄せる情報量。飛び交う多言語。それぞれの民族独特の匂い。人々のエネルギーが脊椎を揺さぶるようだ。

「口、開いてるぞ」
 カズマは恥じらうエドウィンを尻目に、路上に折れた傘を拾うと、それを宙に振りかざしツアーガイド然でエドウィンを先導した。

「あの通りの向こうが劇場街。ライオンキングの看板が見えますね。隣にある中華料理店は観光客目当てのぼったくり店なので、トイレなどの緊急時以外は行かないようにしましょう。その際も『トイレ借りたい』など店員には伝えず、客なので当然という顔で店の奥までさーっと入っていくこと」

「あちらの土産屋で中東の方々が売っている電化製品も絶対に買わないでください。絶妙な料金設定ですが必ず二週間以内には壊れます。返品はできません」

 随分と偏ったツアーガイドにエドウィンは思わず笑った。
「以上、世界の中心ニューヨークの中心地。別に何てことないっしょ?東京の方が全然進んでるだろうし。一度も帰ってないから忘れちゃったけど」
「それってもう十年くらいですよね?何でですか?」
「飛行機代が高いし、帰るところもないしな」
 エドウィンが反応する前にカズマは話題を変えた。
「どこに行こう?ニューヨークの観光は一日だけだから行きたい所あれば」

 ジェフから聞いた話しと違う。ニューヨークには三日は滞在する予定だったはずだ。エドウィンが首を傾げるとカズマは続けた。
「あ、ジェフには予算内で好きなプランを組んで、って言われたから全部車で移動する事にした。その方がアメリカのこともよく見れるし」

 エドウィンは呆れて言葉が出なかった。でもよく考えれば元々プランなんかなかったのだ。車移動は嫌いではないし、反論するのも面倒臭い。

「で、どっちに向かう?北に行くとブランド街とかセントラルパークとか高級住宅街。南に行くと若者が多いエリア」
「どっちでもいいです」
「何か興味あるものないの?買い物はニューヨークで済ませといたほうがいいよ。これから先は歩きでふらっと行ける場所なんて無いだろうし」

 エドウィンは自分の中の数少ない欲求を模索した。
「レコードと古着が買いたいです」
 無反応のカズマを見ると、自分が観光客定番の答えをしてしまったのかと少し気恥ずかしさを覚える。

「よし、じゃあ南に行きまーす!」
 雑踏の中、大声の日本語で叫ぶカズマにエドウィンの恥ずかしさは増幅する。だが周りの通行人に気に留めているものはいないようだ。カズマは折れた傘を南方面に差しながらブロードウェイを歩きはじめた。

 タイムズスクエアの混雑を抜けるとハングル文字がそこかしこの店の看板に見られる。韓国語が飛び交い歩行者もアジア系ばかりだ。十分ほど歩いただけなのに街の景色がさっきと全く違う。
「ここが韓国人街」
「日本人街はないんですか?」
 エドウィンが聞くと、カズマは少し考えた。
「特にないかな。日本の店が比較的多い通りはいくつかあるけど」

 カズマによると、日本人はコミュニティを形成するのが好きじゃないそうだ。せっかく自由を求めて出てきたのにそんな窮屈な事をするのがめんどくさいのだと。

「日本人は周りと違うと不安になって人に合わせるくせに一方でコミニュティとかしがらみを嫌う、ややこしい民族なんだよ」
「カズマさんは日本人の友人とかいないんですか?」
「ちょっと前までは日系の仕事してたから知り合いくらいはいるけど、つるむほどじゃないね。昔は語学学生とかよく食ってたけど。簡単なんだもん、あいつら。親のすねかじって遊びに来てるような奴ばっか」
 カズマは淡々と続ける。
「パリ症候群ってあるじゃん。あれと似たようなのがニューヨークにもあんだよ。『自由』とか『個性』とか、耳障りのいい単語に乗せられてきちゃう奴。で現実の厳しさとのギャップで苦しくなって寂しくなったりおかしな思考になっちゃう奴がさ」

 悪びれもせず語るカズマにエドウィンは嫌悪感を禁じ得ない。
「セックスやドラッグにおぼれる自由もホームレスになる自由もここにはあるからね。『自己責任』ってやつ?日本でその言葉流行ってるんでしょ?」

 エドウィンは段々気づいてきた。カズマの認識している日本というのは大雑把で一時代遅れている。「自己責任」という単語はもはや流行語ではなく既に定着した言葉だという事は言わないでおこう。

「オレは、今まで全部ゼロからやってきた。だから世間知らずの甘ちゃんを多少食い物にしてもちょっとは許して欲しいよね」

「弱肉強食」
そんな言葉がエドウィンの脳裏をかすめた。博愛主義者でヒッピーだった父ジェフが最終的に行き着いた答えはそれだった。自分は弱肉に当てはまるのだろうかー

             *

 カズマに導かれるがまま大通りを南下すると、やがて黒くて大きなキューブ型の物体が目に止まる。その近辺は自己主張の強い個人経営の店が並んでいて若者が目立ち、雰囲気もタイムズスクエア付近とはガラリと変わって緩い雰囲気だ。あっちが新宿ならこっちは原宿と言ったところか。
 
 さっきまで景色として眺めるだけだった人々の輪郭が段々はっきりと浮かび上がってくる。揃いのスカーフを巻いたボヘミアンな雰囲気のカップルー顔中に刺青の入ったスキンヘッドの男―道の脇に座り込んだボロ布をまとい悪臭を放つ若者二人組は鎖で繋いだ野良犬の首に「ドラッグ買う金をくれ」と書かれたボール紙をぶら下げさせている。

 セントマークス通りを進むと、散在するラーメン屋や居酒屋など日本語の看板がエドウィンの気分を少し落ち着かせた。その間に並ぶ露店ではチープなサングラスやガラスのパイプが所狭しと並び、昼間から酔っぱらった学生達が英語の拙い店員を冷やかして通り過ぎて行く。通りの向こう側では学生の集団がデモ行進をしており、年配の男がそこに罵声を浴びせている。

「何のデモですか?」
「さあ?この辺はしょっちゅうやってるからなー銃規制かもしれないし黒人差別についてかもしれない。大統領への抗議かもしれないし、街の家賃高騰に対してかもしれない」
「みんな意識高いんですね。それとも文句言うのが好きなのかな」
 エドウィンは感心と軽蔑の入り混じった気持ちで呟くと、カズマは急に真剣な面持ちになって答える。
「それもあるかもしれない。でも不正や許せない事があったら声をあげるのは当たり前の事なんだよ。どうせ変わらないと思って黙ってたらどうせ変わらない。一足す一が二なのくらい当たり前な事だろ」

 エドウィンはなんとなく居心地悪く感じ、手持ち無沙汰に露店に飾られたTシャツを物色し始めた。するとすかさず店員が歩み寄ってくる。

「二十五ダラー。オンリーフォーユー!」
 エドウィンは訛りの強い英語で語りかけるターバンを巻いた店員に愛想笑いしながら首を横に振った。

「ドゥーユースモークウィード?ドゥーユーウォントウィード?」
 英語の意味がわからず、エドウィンはカズマの方を向いた。
「マリファナ買うかって事。こんな奴からは買わない方がいいよ。ぼったくられるだけだ」
「別に誰からも買うつもりないですよ」

 口うるさい露天商を巻き、歩きを続けて程なくすると店先に並んだ木箱に詰まったレコードの群れがエドウィンの足を止める。店の看板はサイケ調の字体読みづらいがでそれがレコード屋であることを告げているようだ。エドウィンがカズマの顔を伺うと、カズマは顎でエドウィンに入るように促す。

 店内は思ったよりも広く、ジャンル毎に丁寧に陳列されている。エドウィンはまっしぐらに電子音楽の列に足を進めた。ふと顔を見上げると、見覚えのある、崖の手前の草むらで立ち尽くす四人組の写真が見えた。エドウィンは顔を紅潮させ、自分の背の高さを活かしてその円盤を手に取った。

「これ初回限定版っすよ!40ドルなんて信じられない!日本だったら10倍しますよ!」
 エドウィンの珍しい興奮ぶりにカズマは笑みを押し殺した。
「なんか随分爽やかなジャケットだな。60年代のグループサウンズかなんか?」
「インダストリアル音楽の先駆者スロッビング・グリッスルですよ!その後りサイキックTVとかやってたジェネシス•P•オリッジの!このジャケットは自殺の名所で撮影されてて•••」

 カズマはエドウィンの話を半分程度に聞きながら、目を引く色合いやデザイン性の高いジャケットを物色しては棚に戻していた。「ピンク•ムーン」と書かれたダリを彷彿させる絵に見惚れていると、エドウィンはこのアルバムのアーチストはどれだけ生前不遇の人生を送り、死後に売れたのかというストーリーを熱く語りはじめた。カズマは面倒くさくなりギターウルフのアルバムのありかを店員に尋ね始めた。

 エドウィンは三十分ほど物色すると、他に埋もれていた八十年代の実験音楽のレコードを二枚追加し、意気揚々とレジに向かった。レジは値札の数字からなぜかさらに引かれてたったの六十ドルを示した。エドウィンの長財布には日本で両替してきたピン札の百ドル札の束しか入っていない。レジの男はなぜか怪訝な表情をしている。エドウィンが一枚抜き渡すと、男は大きな目をグルっとさせて大きなため息をついた。

「うちは百ドル札は受け取らないんだ。もっと小さい紙幣はないのか?お前ら、ドラッグでも売ってるのか?」

 なぜ百ドル札が使えないのかエドウィンには理解できない。焦ったエドウィンは含み笑いをしているカズマをちらっと見る。

「すいません、六十ドルありますか?」
「あるよ」
「この百ドル札と交換してもらっていいですか?」
「交換?」

 カズマは面食らった表情でエドウィンを見るが、懇願するようなエドウィンの眼差しに思わず苦笑しポケットからくしゃくしゃになった二十ドル札を三枚カウンターに出した。

「百ドルと六十ドル交換かー。これ本業にしようかな、金金交換」

 カズマの皮肉はエドウィンの意に介さなかった。百ドル払っても欲しかったし、カズマに貸しを作りたくない。世の中生まれながら金持ちと違う人間がいて、そんな事は自分の選んだ事ではない。

「お前の感覚、ちょっと変だぞ」

 購入を終えてセントマークス通りに戻るとカズマは少し真面目な顔でエドウィンに四十ドル札を返しながらそう言い放った。

「あと、そんな立派な財布ちらつかせないほうがいいぞ。日本人がピン札の百ドル札束なんて見せたら、すぐ人が群がってくるぞ」
 一万円程度の百ドル札がそんな高額紙幣扱いだとは初耳だった。
「でもオレ、日本人に見えないし」
「そういう問題じゃない」

 カズマはエドウィンの財布をおもむろに奪うと、中から百ドル紙幣の束を鷲掴みに取り出し、紙くずのようにくしゃくしゃに丸め、それをまた広げて財布に戻した。
「何するんですか!?」
「使いやすくしてやったんだよ」

 カズマは何事もなかったかのようにまた歩き始めた。

              *

 カズマの目に、赤いスプレーペイントを振りかざす男の姿が映る。交差点脇に鎮座する大きな洒落たカフェの外壁に描かれているグラフィティはまだ30%完成といったところで、原色だけの人目を引く色合いだ。必要以上に大げさで無駄な動作がカズマの鼻についた。後ろに結わえた白メッシュの長髪も今風だ。

 パフォーマンス重視の目立ちたがりアーチストーカズマは瞬時にそう判断を下し、この脚立に乗った道化師の顔を見ようと無警戒に近づいていく。

 そのオーバーオール姿の道化師はちょうど脚立から降りてきた。そしてカズマと目が合うや否や飛びつくようにカズマにハグをしてきた。記憶に淡く残っているその感触―カズマは怪訝に男の顔を覗き込んだ。

「カズマ、久しぶり! 生きてたのか?」

 それはこっちのセリフだ、カズマはため息をついた。マッド・ドッグ(狂犬)の名で通るこの男に会うのは合同展示会以来だった―シャーロットと初めて出会った三年前の夏のある日。

「あの展示会のあと行き詰まってニューヨークを出てベルリンに引っ越したんだ。でもイマイチ肌が合わなくて先月戻ってきたんだ。でこのクソまずいリカーの広告を描いてるわけさ」

 ニューヨークはいつだってニューヨークだ。この街を嫌いになり捨て台詞を吐いて出たのにしばらくすると戻ってきたアーチストは何人もいた。いくら街の表層が変貌をとげ地価が上がっても、他に居場所の無い捨て犬のような人間への寛容性は変わらないのだ。

「カズマはどうしてるんだ?」

 最近大きな仕事が入って忙しいと嘘をついた。

「それは良かったぜ。お前は売れると思ってたんだよ。オレ、あの合同展示の時にお前の絵ばっか注目されてたのが悔しかったんだ」

 意外な告白だった。その合同展示会は、いわば奴の人気に乗っかった展示会だった。絵はあまり売れなかったが注目を集める機会にはなり、そこから少しずつ仕事が来るようになったのだ。その波も結局すぐ終わるのだけど。

 マッド・ドッグはベルリンでの生活の事や自分の近況、現在寝ている女の事など尋ねてもいない話を機関銃のようにまくし立てると、突然糸が切れたように黙り込み、また今度ゆっくり話そうと一方的に会話を切った。やれやれ相変わらずだ。

 別れの握手を交わし、マッド•ドッグの絵に見とれているエドウィンに声をかけてカズマはその場を立ち去った。

「Dream On!(夢を見続けろよ)」

 その陳腐な台詞は今のカズマに辛かった。本当の道化師は自分なのかもしれない、と思った。いつまでも距離感の掴めない夢を追い続けるのと全て諦めるのはどっちの方が難しいのだろう。ひび割れたアスファルトの地面が自分の重い足を吸い込んでいく。

「カズマさん、すごい人と友達なんですね!」
 無垢な目を見開いたエドウィンが尊敬の面持ちで声をかける。
「この程度の壁の広告くらい、俺だっていくつも…」
 カズマは言いかけて途中で言葉を止める。何を言っても負け惜しみだ。

「アートって結局何なんですか?たまにいいなと思っても、本当に理解しているのかわかんなくて」
「オレだってよくわかんねえよ」

 それは今まで幾度となくアーチスト仲間たちと交わしてきた、自分の最も嫌いな話題だったのですぐに切った。考えても出てくる答えはその都度違ったし、そんな事を語り合って得られる事など何一つない事に気づいた。

 空を見上げると薄い灰色の雲の隙間から太陽が淡い冬の光を放っており、カズマはそれを真っ直ぐに見つめて秒を数えた。目が眩むまでには二十秒かかった。それから目を瞑り瞼の裏にできた真っ白なキャンバスに自由に色を塗ろうとしたが、想像の中でさえ自分の満足のいくものは描けなかった。


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