to be "ONE"Part3(自我の世界:表象と概念)
オープニング
『to be "ONE"Part1』では「心=宇宙」、『to be "ONE"Part2』では「実存」と、意識の中でも「人生の修行」のようなテーマから取り上げたので、困惑された方も多いと思います。
インテグラル思想の提唱者であるケン・ウィルバーは「人間の意識は『境界』を設定し、「自己」と「他」を区分することで、自我意識を明確にしようとする傾向がある」と指摘しています。
上の階層に行けば行くほど「横のバー」が短くなっています。これは意識の範囲を示すものであり、思考による「分断(判断)」によって自己認識を容易にしますが、同時に意識を限定することを意味しています。
今回は、私たちの日常生活でもっと慣れ親しんでいる「自我」の世界を「聖書的世界観」から触れていきます。
知恵(善悪の知識)の樹
旧約聖書の創世記に登場する「禁断の果実」とは、エデンの園に生えていた果実のことで、善悪を知る木から採れたという設定です。
最初の男女であるアダムとエヴァは神に背かせようとする蛇に唆され、「この実を食べてはならない」という神の戒めに背いたため、エデンの園から追放されたというストーリー。
アダムとエヴァは、善悪の実を食べた後に思考が生じ、「男と女」「善と悪」「快楽と苦痛」「生と死」という二元的知識が生まれ、これにより、人間の堕落が始まったとされています。
燃える剣
アダムとエヴァを楽園から追い出す天使が持っている剣にご注目ください。これは上から下へ下降するセフィロトの順路を示す”燃える剣”。霜月やよいさんがnoteで度々取り上げる重要な象徴です。
つまり、「理(ことわり)を理解しようとするなら、下から順に正しく階段を上昇しろ」という人類に対するメッセージだと思いました。
禁断の果実
さらにもう一つ気になるのが「禁断の果実」の本当の意味。禁断の果実を指すラテン語の「malus」には二つの意味があり、形容詞として使われる場合では「邪悪な」を意味し、名詞では「リンゴ」です。
これが「禁断の実=邪悪なリンゴ」という意味で伝わってしまった原因です。また英語で喉仏(のどぼとけ)を「喉頭隆起=Adam's apple(アダムのリンゴ)」といいます。
つまり、「禁断の実=喉頭隆起」と考えると、アダムとエヴァが禁断の実を食べたことによって「言葉を発する」ようになったのではないか?と推測しました。
そして驚くことに、アダムは神が作ったものに「名前」をつけるのが仕事だったのです。
つまり、リンゴという物質は、リンゴがこの世にあるから存在しているのではなく、リンゴをリンゴとして区別する価値観があるからこそ、そこに存在しています。
リンゴを区別する人がいて、はじめてリンゴが存在するのであり、区別する人がいなければ、リンゴは存在しないことになります。
つまり、認識したものに「名前」や「意味」をつけ、言葉として発することによって「共通認識」が生じます。
「よろずのもの、これによりて成る」とはそういうこと。アダムとエヴァが獲得したのは「知恵」ではなく、「言葉を発する能力」だったのではないでしょうか?
いきなり「禁断の実」ではなく「扉」を開けてしまった気がしますが、次に「自我のレベル」を具体的に取り上げていきます。
追記
しかし、関係物理学のエキスパート「山田貢司」さんによると、喉頭隆起ではなく反回神経であると教えてくれました。SNSでは、こういった交流や情報交換もできるので便利なツールでもあります。
詳細を知るには山田さんが主催する塾やエナジーブルースにご参加ください。ちなみにnoteも開設されています。
自我のレベル
ー 自我のレベル ー
自分の役割 自分自身の像
自己イメージの
意識的側面と無意識的側面
+
知性or精神の分析と識別
境界
自己⇄他者 精神⇄肉体 生⇄死
この代表的な3つの「境界」は、自我がもたらす「投影と抑圧の2元性」になります。具体的には、鏡を見る行為や思考して「分析・判断」する行為など、自分を知り、自分や周囲を認識するための行為に見られる象徴的な知の様式に相当します。
エーリッヒ・フロムの言葉を要約すると、「自我」とは今までの人生で獲得した「言語・論理・社会」というフィルターを通して「知覚」することをいいます。
そして、マニアックな言い方になってしまいますが、網膜で「見ているもの」を物質として固定化するために働きかけられているこの時空領域(物質世界)は「対立的二元性の対称世界」で構築されています。
例えば、「善と悪」という思考は、自分のおかれた状況・立場から見て相対的に働いている概念・信条になります。これをウィリアム・ジェームズが絶妙に述べています。
そして、思考的知覚の高い自我のもとで生活すると、物質的次元領域に縛られてしまい、物事を二元論思考で判断せざるを得なくなります。
これが「意見の対立」や「他者との衝突」を招く要因にもなっていると知っておくと、考えることをやめて「問題から離れる」という行動に移しやすくなるかと思います。
つまり「離れる(逃げる)」のも立派な問題解決の手段の一つであり、思考や感情を整理する余裕も生まれます。そして、判断や思考を手放す手段の最大のメリットは以下のとおり。
つまり「無知」とは
「見る」という観測行為に
「判断・測定」という
思考が作り上げた世界をいう
このように細かく区別すると、すべてのものは最終的には分子や原子、素粒子まで細分化されると思っていますが、それも私たちが勝手に区別したものだと気付かされます。全てを「包含する」のが真理です。
測定行為は科学の進歩ととともに、ミクロの世界まで見ることができるようになりました。それを調べていくと「対称世界」がみえてきます。
それぞれの粒子には質量が等しく反対の電荷を持つ反粒子が存在します。ということは物質世界には反物質の世界があるということ。
この対称的な粒子の世界は、対立的でもあるのですが、差異はすべて「相対的」かつ「プラスマイナス・ゼロ」の世界。
もし、同じ世界で同じものが2つ以上存在すると消えてしまいます。これを「ジョジョの奇妙な冒険」のセリフで
と「対消滅」について、わかりやすく描写されています。そして対立するものは、すべてが相互に依存しているので、どちらか一方の全面的勝利に終わることは決してありません。
つまり、「対立」とは思考領域に属する抽象概念であり、物事の捉え方は常に「相対的である」ということ。それに加え絶妙なバランスで成り立っているのが自然界。
要約すると素粒子の特性は、その運動・周囲との相互作用によって成り立っているので、独立した存在ではなく「全体の統合された部分」と考えます。つまり、フラクタルな世界なので、人の活動も同じことがいえます。
大切なのは互いを排除するのではなく、補い合うことを意識することであり、物事を完全に見渡すことができるように、正反対の枠組みであっても並べて見ることです。
人間関係で例えると「自分が変われば相手も変わる」し、「相手が変われば自分も変わる」ので、「相手が変わらない」と嘆いている人は「自分を変えずに相手を変えようとしている」ことが要因のひとつです。
また、人は判断が狭められていくと、思考は二元論的プロセスを延長しながら加速し、排他的になっていきます。
そのプロセスについて、ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説「1984年」で、作中の国民に「現実認識を自己規制により操作された状態」を与える「二重思考」を取り上げて説明します。
二重思考
二重思考とは「1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる」を求める思考能力をいいます。具体的に2つ挙げます。
支配者(統治者)が過去を改竄し続けているのは、市民が過去と現在を比べることを防ぐために行います。
例えば、現実よりも政府が与えている政策が正しいことを保証しなければいけない国民は、政権与党の主張や政党が作った記録を信じなければならず、矛盾を見つけても、改ざんを見抜かないようにし、改ざんに気づいても「二重思考」で自分の記憶や精神の方を改変します。
つまり、国家体制や秩序を守るために自分にウソをつくor自分が納得する理由(言い訳)を考える。
かつての専制国家は市民に対し、様々なことを禁止しました。近代のソ連や中国共産党、ナチス・ドイツなどは市民に理想(共産・優生思想)を押し付けました。
現在は、全人類に対して「SDGs=フェビアン協会型社会主義運動」が思想として与えられ、『全人類の共産化』という「新世界秩序」に向かっています。
フェビアン協会については↓の霜月やよいさんのnoteをご覧ください。かなりコアな部分まで触れているのでオススメです。
そして戦後の日本は、グローバリスト(宣教師)の策略によって、日本の経済活動は資本主義によって支えられていますが、同時に共産主義思想を与えられていることで「ねじれ」が生じ、時間と労働力の搾取が現在も続いています。
エーリッヒ・フロムは、ナチズム・日本軍国主義が台頭していた1941年の著書『自由からの逃走』で、孤独と無力感にさいなまれた大衆が、他者との関係、指導者との関係を求めて「全体主義」を信奉することになると記しています。
まさに日本は、同調圧力に屈しやすい国民気質と一党独裁的な権威主義を誇示する政権与党と経団連や医師会などの既得権益団体による圧力により、戦前の全体主義に回帰しようとしています。つまり、既定路線ということ。
そして、二重思考を調べた時に真っ先に浮かんだ言葉が「自由」と「平等」という、どちらも快適さや安全を感じつつ自分や他者を尊重できる民主的で平和的な言葉です。
しかし、自由と平等を求める思考と行動は、価値観と信念になりやすいので、摩擦や衝突が起こりやすくこのふたつの言葉を両立させるのはとても難しいのではないかと思います。
自由・平等と聞けば「博愛(友愛)」と続いて「フランス革命」を思い浮かべる人が多いのではないかと思います。
しかし、フランス革命初期のスローガンは「自由・平等・財産」の言葉が一般的だったようで、博愛(友愛)が広がったのは「フリーメイソンが起源になっている」とWikiでは記載されています。
近代の「自由」という概念は、貿易の発展と資本主義の勃興によって豊かになった資本家たちが、政府の干渉を受けずに事業を行う権利=「商業の自由」を主張したことから発展。
日本語の「自由」は福沢諭吉の造語です。つまり、資本主義の生み出す格差が民主主義の問題であることを隠し、革命用語として使われました。
与えられている場面は同じでも、そのルールに公正さがないと『格差』が生じてしまいます。それを「適合」させたり「適応」するために働きかけるのではなく公平にするのが「民主政治」ですが、今はそうなっていません。
「消費税」はその典型的な例で「消費する人が一律に払う税金」という印象を与え、みんなが平等に負担する「税金」のように錯覚しますが、公平な税制とはいえず、「消費行動を抑制する税」でもあります。
つまり、思想や概念は「言葉」によって生み出され、それが社会や文化を形成しました。ここでようやく、この記事の本命である「言語」について迫ります。
ここから先は
¥ 500
私の人生、みなさまの良心で成り立っております。私に「工作費」ではなく、「生活費」をご支援ください🥷