ダ・ヴィンチコードを乗り越えて [第三章]
魔女の本気
いよいよ最後の晩餐の謎解きの仕上げの時がやってまいりました。ここからは密儀に触れる部分。晩餐なのに明るい空、トマスの手の意味、イエスと福音史家ヨハネとの隙間の意味などの深淵に関わる部分にえ触れてゆきます。
映画『Da Vinci Code』で語られたDecodeは、半分語って半分沈黙と言ったところ。その半分の沈黙は深淵。光なき深淵は迷い易き道ゆえに、一歩一歩ゆっくりと踏みしめながら歩んでゆきましょう。
セフィロト
ここからは密儀の領域。これまでは誰もが既知の知識(太陽の運行)が隠れていたため示せば理解可能でしたが、密儀というものは学校では教えてくれませんし、おいそれと転がっているものでもありませんので殆どの人が未知。ゆえに、第一章・第二章で述べてまいりました”太陽の運行”のように、Decodeした画像を見てもわかるものではありません。目の前にそれが堂々と描かれていたとしても見えないのです。
しかしながら、わたくしは現代の魔女。古き言葉を現代に翻訳し伝える魔女。古き知識は膨大で密儀は難解ですが、「最後の晩餐」の本質を見るために必要な部分だけ翻訳しお伝えすることは可能です。
では何が必要かと申しますと、古き教えの古き表で”セフィロト”と呼ばれるもの。第一章でも少し触れましたが、ここでもう一段深くご説明申し上げます。
上の図は古き象徴哲学体系の”カバラ”で用いられる”セフィロト”と呼ばれる図表。セフィロトは、「10個の球のセフィラ」と「22のパス」と「1の隠れた知識」の「合計33」で構成されます。カバリストは自然の諸原理をセフィロトに当てはめることで理解するとともに保存し知識を重ねました。
第一章で登場した全ての始まりを示す象徴”サーカムパンクト”。「点・半径・円周」の単独の三位一体で形を成す「円」は、混沌(無制約状態)に生じた初めての秩序(光)、宇宙の始まりのきっかけの象徴です。また、光が生じたから時間が生じたのか、時間が生じたから光が生じたのか答えが出ぬため、「時間」もこの象徴に含まれます。これをセフィロトに当てはめるなら、最上段にある数1のセフィラ・ケテルです。
「円」の次に生じるは「似て非なる対」です。陰陽・天地・左右・前後・雌雄など、この世に形をなすものは必ず似て非なる対の拮抗状態で形をなします。この時、同時に生じるのは「比」。円周率と同じ無限の属性を持つ比。
上の画像の中心から真上に伸びる半径を1とした時、左側の長い斜線は1.618、右側の短い斜線は0.618です。この「1:1.618」という比が黄金比と呼ばれる特別な比率で、物質化の全てに関わる比です。この似て非なる対は「父性・母性」と象徴され、セフィロトでは数2、数3の「コクマー・ビナー」になります。
このカバラの密儀の象徴画では、前述の諸原理が擬人化され理解が容易です。カオス(闇)の中に生じた光(時間)は、暗い背景の年老いた老人で象徴で示されています(ケテル)。不死の神を年老いた姿で描くことで時の移り変わりを示し”時間”の属性が付与されます。似て非なる対は前述の通り”父性・母性”(ビナー・コクマー)で象徴されています。
この3つの根本原理に基づいて宇宙が創造されました。全てはこの”セフィロトの最初の3つから流出した力。ゆえにこの三者は特別で、三つで一つの”光る三角形”で象徴されます。
光
神話の智慧の始まりは、プロメテウスが天界のかまどから”火”を盗み人間に与えたことから。
実際の智慧の始まりは天の”日”を影として大地に写しとったことから。
これら火や日を生じさせる原理は、セフィロトの最上段の ”円” と ”比” からなる三位一体です。つまり前述の「光る三角形」。全てはそこから流出した力の結果。
「火・日・比」の智慧は聖なるものとなり、その智慧を有する者は”聖人(ひじりびと)”とされ、密儀参入者の目指す規範となりました(偶像崇拝が始まる以前の話)。参入者は聖人と同じ弛まぬ努力と長き忍耐をもって階段を上り続け、光を手にいれることを目指します。
その手順は、古き賢人が”ケテル”を理解した手順と同じで、無駄なものを全て剥ぎ取ってゆくこと。つまり、ケテルから下降した力を、下から順に分解しながら辿り直してゆくということです。詳細は後述しますが、ここで覚えておいてほしいことは以下の三つ。
ケテル・コクマー・ビナーの三つは光で象徴される
理は上から下へ下降する(Wisdom)
理解は下から上へ上昇する(Understanding)
最も上にあるものは光(智慧)であり、全てはそこから下降したもので、理を解しようとするなら、下から順に正しく階段を上昇すること。
今はまだ、なぜこれらが最後の晩餐に繋がってゆくのか分からないと思いますが、理解するために必要な階段であることはいずれ実感されることでしょう。慣れない知識ゆえに難解に感じるでしょうが必要最小限ですので覚えて下さいまし。深淵を迷わず歩くには足元を照らす光が不可欠ですから。
3人が示すもの
パスVr.Ⅱ
ここからのDecodeは『最後の晩餐』パスVr.Ⅱ で進めてゆきます。
時計回り・逆時計回りの秘密で用いた、上向きの三角と下向きの三角を合わせたパス。このパスをそのまま縮小し中心の菱形の中に収めます。それをそっくり切り抜けば、全体と同じ比率の別の絵が現れます。
ダン・ブラウンも取り上げた明らかに秘密がありそうなヨハネ側は置いておき、イエスの最も近くに描かれた3人をDecodeしてゆきます。この3人はイエスの近くから順に「トマス」「大ヤコブ」「フィリポ」と並んでいます。
わたくしがなぜヨハネ側ではなくこちら側に注意を向けたかと申しますと、イエスの最も近くにトマスが描かれていることです。正典となっている四福音書の書き手二人であるマタイ・ヨハネではなくて"よりにもよって「疑わしいトマス」"だということ。トマスはイエスの復活を疑ったとして前述の不名誉なあだ名が付いている使徒です。しかもパスではトマスの口にバッテンが重なり、まるで何かを黙らされているかのよう。そして、イエスを囲む菱形の中に組み込まれている象徴的な手もトマスの手。まるでダ・ヴィンチが疑い深いトマスのように疑い深く調べろと言っているかのよう。
その通りに追いかけてみれば、「最後の晩餐」のMatrixを打ち砕くものでした。幻を打ち砕くそのハンマーは三つあり、全てを合わせ打ち付けたとき、「最後の晩餐」のMatrixが崩れ落ちることとなりましょう。
そして最終的にあなたは、雷のような光に打たれることでしょう。
トマス
ダ・ヴィンチがイエスの最も近くに描いたトマスは、現実世界では真逆の扱いを受けています。トマスは使徒であり最後の晩餐に列席しているにも関わらず、昔から彼の福音書は”怪しい書物”とされる酷い扱いでした。古い原始キリスト教の教父の証言からトマスの福音書の存在は知られていましたが、正統派教会からは邪険に扱われ続け、第二回ニカイア公会議により正式に”誰かが捏造した偽典”とされました。権威ある人々によって、ずっとず〜っと歴史的にそう定義されてきました。
ナグ・ハマディ
ところがどっこい、1945年に上エジプトから見つかったナグ・ハマディ写本の中にはトマス著と書かれたものがありまして、長らく捏造、偽書、偽典とされてきたトマスの福音書は、原始キリスト教の教父たちが言っていたようにマジものの可能性が出ました。(未だに権威ある人々は認めておりませんが)
この福音書を正統派教会はなぜ嫌がったのかと申しますと、ナグ・ハマディ写本にはトマスの福音書を含む、多くのグノーシス的な教えがちりばめられているから。原始キリスト教グノーシス派は古いだけあり、わたくしが申し上げるカバラが色濃く残っているキリスト教。ゆえに正統派からは忌み嫌われてきました。ではグノーシス派の考え方を見てみましょう。Wikiから引用します。
至高者に由来する本来的自己についての「認識」(グノーシス)による救済を最重要視し、グノーシスを通じて、造物主への信仰や律法など倫理的行為、および教会の権威から解放されなければならないと説く。
グノーシス各派により程度の差はあれ「信仰」「行為」「教会」(および教会を担う聖職者)に絶対的な権威を認めない。
グノーシス派は物質世界が不完全で邪悪であるという観念があり、肉体が物質的で不完全なものとされていました。そのため、イエスの肉体的な復活を否定します。正統派教会では、イエスの肉体的な復活は信仰の中心的な要素ですから、グノーシス派とは真っ向から対立します。その他も”教会の権威から解放されなければならない” や ”「信仰」「行為」「教会」「聖職者」に絶対的な権威を認めない”など、権威という魔法を行使する正統派教会が嫌うことばかり。そんな”権威ある”正統派教会が嫌うトマスがイエスの最も近くで独特の手のポーズをとっています。
単純明快に申し上げますと、権威の反対側にいるダ・ヴィンチが、権威が嫌うトマスをイエスの最も近くに配置し独特のポーズをとらせているということです。意味があると考えるのが自然ではないでしょうか?そう考え注意深くトマスを見れば、その手のポーズはダ・ヴィンチが最後まで手放さなかった3枚のうちの1枚「洗礼者ヨハネ」と重なり、よくよく考えてみれば、イエスを挟んだトマスの反対側には、同名の使徒ヨハネが配置されています。更にいえば、トマスと重ねて描かれる人物は雷の兄弟と呼ばれる特別な兄弟の兄・大ヤコブで、弟は使徒ヨハネです。偶然でしょうか?
洗礼者聖ヨハネ
トマスの手は、ダ・ヴィンチが最後まで手放さなかったと言われる三枚の絵のうちの一枚「洗礼者聖ヨハネ」と重なります。イエスを洗礼した聖ヨハネです。
ダ・ヴィンチが描いた洗礼者ヨハネの、その独特な指先が示すは本人が抱えている杖。暗くてとても見えづらいので輪郭を強調しました。よく見れば先が十字になっている杖です。換言すれば”下が長い十字架”であり、これには密儀的な意味が含まれます。
長い十字架
十字架は立方体の象徴ですので、下が長いと言っても限度があります。立方体の展開図の上部の正方形を1とした時、下部は2でなければ立方体になりませんから。
いかがでしょう?長すぎると思いませんか?同じ宗教、同じ象徴でも、違いがあれば意味も変わります。下が長い十字が示す意味は以下です。
上から下へ下降するセフィロトの順路を示す”燃える剣”。下が長い十字が示す密儀的な意味は、この”燃える剣”です。
つまり、トマスが示すは洗礼者聖ヨハネを通し”燃える剣”を象徴します。これが一つ目のハンマー。
大ヤコブ
顕教的梯子
カバリストがヤコブと聞いて連想する象徴は”ヤコブの梯子”しかありません。この梯子の顕教的解釈は、旧約聖書の創世記28章で族長のヤコブが兄エサウより逃れる際に夢に見た天国へと延びる梯子のことです。
この「ヤコブの梯子のヤコブ」と「雷の兄弟の大ヤコブ」は別人ですが、前述のトマスと後述するフィリポの象徴を考慮すると、トマスの手を通してヨハネを象徴したように、大ヤコブを通しヤコブの梯子を象徴したと考えます。
なぜなら、重ねて申し上げておりますが、大ヤコブは使徒ヨハネの兄弟であり、イエスから「ボアネルゲス / 雷の兄弟」と呼ばれた特別な二人。それもそのはず。密儀では”洗礼者ヨハネと使徒ヨハネはそれぞれが夏至と冬至を示し、二人でヤコブの梯子を象徴”するから。
その視点で最後の晩餐を見れば、ヨハネと大ヤコブも梯子のようにイエスを挟み置かれています。ゆえに、一般的に考えたならヤコブ違いですが、密儀的な視点で見たら大ヤコブを通して”ヤコブの梯子”が象徴されていると読むことができます。
ちなみに第四章ではもっとはっきりと梯子が描かれてますよ。
密教的梯子
上記の象徴画は古き象徴主義を現代に伝えるフリーメイソンのもの。この象徴画にもヤコブの梯子が描かれております。前述の梯子の説明の引用はフリーメイソンの象徴辞典から。ヤコブの梯子はキリスト教だけの象徴ではないことを理解して下さい。
この象徴はさらに多くの意味を含むため詳細は割愛し、ここではDecodeに必要な意味だけをお伝えします。ではもう少しフリーメイソンの象徴画を見てみましょう。
古典の顕教的なヤコブの梯子は、あまりに寓意に覆われ過ぎて本質が見えませんが、現代的なフリーメイソンのヤコブの梯子は、その意味を明確に伝えます。
上図下段の階段の象徴画をご覧ください。3段5段7段の階段を順に上り、石で囲まれた洞窟から光溢れる外の世界へ脱出するということを象徴します。盲人が聖人になる足跡といったところ。
要するに、ヤコブの梯子の最も簡潔な説明は”努力して目指す啓明”です。
ここで大切なことは、7段の階段が示すもう一つの”啓明”の意味。象徴画に描かれている自由七科目を示していることは、ご覧の通りフリーメイソンの顕教的な部分です。そして、古きものには必ず二重の意味があるように、7段の階段にももう一つの密儀的な意味があります。
密儀では「7段の階段 / ヤコブの梯子」はセフィロトの階層も象徴します。
つまりヤコブの梯子は”セフィロト”を示すということ。これが二つ目のハンマー。”燃える剣”に”セフィロト”と続きましたから、フィリポが示すものも察しがつくのではないでしょうか?
フィリポ
死に様
太陽の運行で述べた、バルトロマイが皮剥ぎの殉教で蛇の脱皮を象徴したように、フィリポの死に様もまた象徴的です。象徴画に記されているようにフィリポは逆さ十字のように吊るされ殉教しました。このフィリポの逆さ吊りの意味は以下です。
”逆さまの燃える剣”。燃える剣の流れの方向は通常上から下です。剣で例えるなら”つか”から切先に向かいます。十字架で例えるなら短い方から長い方へ下るのが通常です。フィリポが示す逆さまの燃える剣は、セフィロトを下から上へのぼる事を意味します。苦行を経てセフィロトを上り光を得るということ。換言すれば辛き道を歩まねば光は得られぬという、フリーメイソンの啓明の象徴画と類似した意味を持つ象徴です。
この「智慧の獲得の代償」の象徴は、北欧神話では智神オーディンが知恵の獲得のため世界樹ユグドラシルに吊るされた様で象徴されました。タロットカードの吊るされた男も同様です。男の頭の後ろに日知り人を示すHaloが描かれていることに注意して下さい。このように逆さまの燃える剣は、智慧の獲得のための厳しい道のりを伝える象徴です。これが三つ目のハンマー。
では三つのハンマーをまとめます。
3人の象徴
トマスが示すは”燃える剣” = セフィロトの順路(上から下)
大ヤコブが示すは”ヤコブの梯子” = セフィロトの階層(7段vr)
フィリポが示すは”逆さまの燃える剣” = セフィロトの順路(下から上)
顕教で語られる神話から真の意味を抜き出せば、全てセフィロトを示すことが分かります。これが宗教神話のMatrixを3つのハンマーで打ち壊すということです。
よろしいですか。よく考えて下さい。
最後の晩餐はキリスト教の神話のワンシーン。しかし、ダ・ヴィンチのメッセージはカバラのセフィロトを用いて「啓明」を示しています。現代的に申し上げれば「努力し智慧を学び、権力が作り出したMatrixから己を解き放て」です。ダ・ヴィンチが本当にそんなメッセージを残していたと信じられませんか?やはり一度、雷霆に打たれないとダメなようですね。
あなた自身の深淵に雷のような強き光を当てましょう。
Matrix = 仮想現実 = "否"現実
ダ・ヴィンチが描いた枠
『最後の晩餐』はイエスの生涯の物語の一部であり神話であり現代的にいうならMatrixです。そのMatrixを乗り越えて、初めて洞窟の外の光が見えます。きっとダ・ヴィンチも啓明の意味を込めて”こうした”のだと思います。
”こうした”と申しますのは画像の緑の淵の部分のこと。これはわたくしが書き足したものではなく強調しただけ。元々淵が描かれているのです。このことに関して”あり得ない”と言われている説を敢えてご紹介いたします。魔女は常識の逆張りが基本ですから。
この淵は”劇場の舞台”を表していると言われます。きっと常識的に考えてあり得ないため”おかしな説”と言われますが、あなたはどう思いますか?
わたくしの視点ではダ・ヴィンチは密儀を知っていたと考えておりますから、イエスの物語は正統派の創作した神話だと理解していたでしょう。つまり劇場の演劇のようなものだと理解していたはず。
ここから先は
もしよかったらサポートをご検討してくださいまし。 わたくしのお伝えするお話は大衆娯楽誌のように広まるようなものではなく、ビジネスとしては成り立ちません。故にnoteを通してのサポートは大変助かります。 わたくしのお話があなた様の心の琴線に触れましたならサポートをお願い致します。