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人はみな、無敵になろうとしている

こにちはぬん。ベビだす。
タイトルを読むと「いやいや、そんな超人目指してないし」と思う方もいるかもしれません。
安心して下さい、そんなあなたもおそらく無敵を目指しています。

バガボンドという漫画を昔読んだとき、何巻か忘れましたがこんなセリフが出てくるシーンがあり、凄くハッとしてそのコマで動作が止まりました。

「無敵と聞くと、どんな相手にも必ず勝つ強さだと思われがちだが、本当の無敵というのは『敵対する相手がいない状態』のことだ」

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台詞のままではないですが、意味としては上記のようなセリフです。
これが書かれているコマを目にした時、わたしの一切の挙動は止まりました。それほどまでに、ハッとしたのです。

そして今、改めてこの台詞を思い出すと、世の中の人はほとんどと言っていいほど「無敵を目指している」ことに気付いたのです。


わたしもそうですが、おそらくほとんどの人が争いを避けます。
皆さま、身に覚えがあるはずです。
敵を作らぬように、日々そつなくこなしている時間、これは多々あります。
ちょっとした物の言い方一つも吟味して、受け取った相手やそれを見聞きした人が「敵意」を抱かぬように。「敵」を作らぬように。
仕事であってもプライベートであっても、リアルであってもネットであってもそれは同じです。

これは、いたって正常な事なんですよね。
争う事は多大に消耗するし、そこで得られるものに見合わない。
もし争うことが「友好的に振舞う事」よりも簡単で得られるものが大きいならば、身近でもっと小競り合いが乱発していてもおかしくないはず。


けれど実際には、右を向いても左を向いても誰かが争っている、などという状況の渦中にいる人はそうそういないでしょう。
それは自分が努力して気を配り、そんな場の「登場人物」にならないように無意識のうちにすら気を付けて振舞っているからなのです。



おベビは、人と争ったことというのは思い返してもまずありません。
あ、付き合っていた恋人と喧嘩したとか、そういうのは別ですよ(笑)
おベビが争ったことがあるのは、会社くらいのもんです。
争うというと大袈裟で、「主張した」程度のものですが。
自分が当然得られるはずのものが侵害されたときは、ちゃんと異議を申し立てます。
それを行ったのは、異議を申し立てる労力や心労に勝るほどの結果を確信していたからこそ。
それがないなら、そもそもそんなことを最初からしません。

だって、馬鹿らしいもの。



人はみな、意識・無意識にかかわらずどこかで計算し判断する生き物です。
例えばダメージを食らっても、マイナスを受けても、「そのことに対して異議を唱えたり、相手と争う」事で得られる結果が「食らったダメージを補って余るほどのプラス」でなければそうした行動には移りません。

自分自身を無駄に苦しめたくないから、無益なことや無意味なことはしない、というのがとどのつまりは本当のところなのです。

ここまで書けばお分かりのように、人というものはみな、自分の生きている世界の中で「本当の意味での無敵になろうと必死に努力している」のです。



時には、「敵がいるから、面白い」などと聞くこともあります。
「意識高い系を勘違いしちゃった系」なそのセリフは現実的ではありません。

「漫画のキャラかよ」
「中二病乙!!」

多くの方の心の本音は、こうでしょう。

仮にその発言を何らかの言葉で褒めてくれる方がいたとしても、それは
褒めて下さった相手方が
「真の無敵を志している大人だからこその誉め言葉」です。
同意された・褒められたと受け取るのはあまりにも子供じみているでしょう。真実は「幼いなあ」と思われていることが多々であったりします。


とある本で読みましたが、イタリアのマフィアはこんな事を言うそうです。

友人は千人いても不充分だが、敵は一人いれば充分である

マフィアの法則―人を操る37の方法 単行本 – 1997/9/1V. (著), 東江 一紀 (翻訳)より抜粋。
古い本なので覚えていたタイトルで検索し、Amazonで見つけました。
今は中古本から出品があるようです。
マフィアの法則―人を操る37の方法 単行本 – 1997/9/1V. (著), 東江 一紀 (翻訳)

突っ込むと、「いや一人いれば充分どころか、一人も要らんww」ですが、まあこれは文章を引き立たせるためにそのように書いたのかもしれませんし、マフィアにはマフィアの考えがあるのかもしれませんね。


【まとめ】

■人はみな、平和に生きるために無敵になろうと努力している

これが真実だと思います。
当たり障りのない、優しい世界というものも、仮面のようで気持ち悪いと感じる瞬間もあります。自分が毒気を帯びた時、わたしもそうなることがあります。それも、生きていれば当たり前のことです。

けれどやっぱり、いつも入り浸るには良くないんですよね、そういう世界というものは。
たまに「辛辣なママのいるお店」に行くのは気分爽快だしいいけども、いつもいつも辛辣だと人間は「やっぱりホッとできる場所に行きたい」と思うものでしょう。

毒を欲する時もあるけれど、常に毒の沼に浸かっていると精神的にも良くありません。
毎日が007みたいな日々だと、心労のあまりきっと突然死したり過労死したりするでしょう。

つまりは、「自分にとって必要な『行きつけのお店』を持って、自分が必要な時にその時の自分に合った店に行ける」ことが、「敵を作る人間にならないため」にも必要なのだと思います。

その時の気分や状態によって食べ物を選んだり、観る映画を選ぶことと何ら変わりはないのですから。

全ての人間から好かれる、ということはほぼ不可能に近いことです。
それを目指せというのではありません。
目指したところで、自分自身が疲弊して擦り切れるだけかもしれません。
全ての人間から好かれることは不可能であっても、「出会った人を敵に回さないように自身や環境をコントロールする」ことは比較的可能です。
心の中で嫌っていても、良いのです。
でもそれは表現した途端に、宣戦布告となるのです。

正直に素直に生きることと、賢く生きることは時に折り合いをつけにくいものです。

それは、選択次第です。
あなたの選択を、誰かが代わりに選んで引き受けて体験することは出来ないのですから。












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