ゴミと終わらない世界
僕は、月に1回、家の周りのゴミ拾いをしている。きっかけは、友人がゴミ拾いの企画を始めて、それに参加しているうちに、自分の家の周りでもやってみようと思ったからだ。たかだか1時間ぐらいではあるが、たぶん1年ぐらいは続いていると思う。飽き性の僕にしては続いている方かもしれない。
「なんでゴミなんか拾ってるの?」
回数は思い出せないが、それなりに聞かれたことのある質問だ。でも、いつも、その回答に困る。おそらく、毎度回答に悩み、違うことを言っているような気がする。何故すっと言えないのか。それは、この行為に特別な理由などないからなんだと思う。自分の住む街に恩返しがしたいとか、徳を積みたいとか、表向きだけでもそれなりのことを言えたら、答えに悩むこともないのだが、そんな気持ちもあんまりないのだ。ただなんとなく月に一度その時がやってきたらやるだけのことであり、それがそれなりに嫌じゃなく、それなりに心地いいから続けられているだけのことである。
ゴミ拾いをしていると、色々な気付きがあったりする。比較的、木の茂みの中にゴミが多く落ちている。木の中に捨てるということは、きっと、捨てた人も、どこか申し訳なさがあるのではないかと、そんなことを思う。捨てたいのなら、堂々と道の真ん中に捨てればいいものを、木の茂みに入れるというのは、隠そうとする行為に他ならないのではないだろうか。隠そうとするのは、そこにはどこか後ろめたさがあるような気もしている。視界から消すことで、自分の行為をなかったことにしたい、そんな想いが無意識のうちにあるような気がする。だとすれば、もしかしたら、その人達は小さなきっかけ次第で、ゴミを捨てるということもやめるのかもしれない。
うちの周りだけかもしれないが、公園にもゴミがいっぱい落ちている。子供のお菓子の袋ならまだしも、タバコの吸い殻がたくさん落ちている。みんなの公園ではあるが、基本的には子供のための遊び場において、タバコの吸い殻を捨てるというのは、一体どういう気持ちなのだろう。きっと、何も考えてはいないのだろうと思う。何も想像をしていないのだろうと思う。以前、道を歩いていた時に、目の前で、タバコをポイ捨てする女性を見たことがあった。あまりにも華麗に、しかもこんな近距離で捨てられたものだから、驚いてしまい、何も言えずに立ち尽くしてしまったことがあった。そういう人たちは、木の茂みにゴミを入れる人にある、後ろめたさみたいのようなものはないのだと思う。
なんだか、こんなふうに言うと、僕はゴミを捨てる人を憎んでるような感じもするかもしれないが、実際のところは、憎みもなければ、恨みもない。何故なら、この世には絶対的正しいことは存在しないと思っているからだ。だから、捨てることが間違っているとは言えない。でも、僕はゴミを捨てない方がいいと思っている。ゴミがない街の方がきれいで気持ちいいと思っているし、ゴミを捨てるのはどこか心苦しいから。でも、もちろん、それはあくまでも僕個人の意見。人に押し付けるようなものではない。この世に絶対的な正しさがない以上、強制することはできない。なので、僕は、どこまでも自分の価値観に従って行動し、その行動を通じて、自分のあり方を宣言していくだけである。押し付けることなく、自分の価値観を提示していくだけのことである。だから、もし捨てる人に対して思うことがあるとすれば、それははただ一つ。「なんで捨てるんだろう」と言うシンプルな問いだけである。
これも、ゴミ拾いをしていて気づいたことだが、前回取り損ねた空き缶がなくなっているということが多々ある。もちろん、急に消えることもなければ、この短時間で分解されることもないわけで、それはつまりは、誰かが拾ってくれたということである。風に吹かれたという可能性もゼロではないが、きっと誰かが拾ってくれているのだ。誰に気づかれるわけでもなく、誰に褒められるわけでもなく、誰に表彰されるわけでもなく、どこかに名前が出るわけでもなく、それでも拾ってくれている名も無き人の姿がそこにあることを知る。僕たちはわかりやすくメディアに出たりして、活躍している人を、称賛したり憧れたりするわけだが、この世界を支えているのは、多くの名も無き人の力であることを、僕はゴミ拾いを通じて感じたりする。
「ゴミとは何なのか」
そんなことを初めて考えたのが、大学2年の時にハンバーガーチェーン店でバイトをしていた時のことだった。僕は、ある日、いつものとおりお客さんから食べ終わったプレートを受け取り、いつものとおり、そのプレートに敷いてあった紙と、残ったポテトをゴミ箱に捨てた。そして、そのポテトが、ゴミ箱に入っている画を見た時にふと思った。
「あれ、このポテトはいつからゴミになったのだろう」
きっとそれは、購入した人がお腹が一杯になった瞬間なのだとは思う。でも、少なくとも、残される前の、一本前に胃に入ったポテトはゴミではなく商品だった。その一本の境目を経て、このポテトはゴミになった。もし、お腹が空いた人がこれを見れば、このポテトは商品としてのポテトとして認識するのだろう。そんなことを考えた時に、当時の僕は、ゴミとは何かがわからなくなった。それからいくつもの歳を重ねて分かってきたことは、それがゴミになるか否かは、その人の状況如何によるということだった。
だから、究極的には、絶対的にゴミなんてものは存在しないのかもしれない。誰かにとってのごみは誰かにとっての宝物だったりする。生ゴミだって、捨ててしまえばゴミになるが、土に入れれば肥料にもなる。一つ確かなことは、例えそれをごみだと認識したとしても、それが消えてなくなるということではないということだ。何かから作られたものが、どこかの瞬間からか、それがゴミと呼ばれるわけだが、それを、ゴミ袋に入れて、焼却炉で焼かれたとしても、なくなるわけではない。灰か何かに変わり、この地球上に存在し続けるということだ。この世にある全ては、増えもしなければ、無くなりもしない。どんなに形を変えようと、この世界にあり続ける。全ては形を変えて、循環し続ける。それがこの世界の摂理であり、そこから逸脱することなどできない。その認識が、僕を始め、人類はどれだけ持っているのか大いに疑問である。
灰になればまだいい方なのかもしれない。毎年、海には800万トンを超えるプラスチックが流れ出ている。それらのプラスチックを食べた海の生き物達が苦しみ、また、海に溶けたマイクロプラスチックを食べた魚たちを我々は食しており、1週間にクレジットカード1枚分のプラスチックを食べていることになる。我々は、木の茂みにゴミを隠すように、見えなくなればなくなった気でいるが、それは確かに存在している。そして、その隠したゴミは、巡り巡って、その身に返ってくる。先ほど、「(ゴミを)捨てることが間違っているとは言えない」と僕は言ったが、もし、人類がこれからも、この地球の中で、この生態系の中で生存していきたいとするのであれば、それに対しては絶対的に「間違っている」と言うことができる。
自分の部屋のゴミ箱を見る。そこに入っているのは、ほとんどがプラスチックと紙であることに気が付く。このプラスチックは我々が、便利さと、清潔さと、安価を求めた故だろう。また、紙の多くもレシートやチラシ、包装だったりする。本当にどうしても必要だったものが、このうちにどれだけあるだろう。調べてみると、実は江戸時代からゴミ問題はあったらしい。その頃から、人口が増え出して、空き地や川に捨てられることも多くなったとのこと。そこで、定期収集を始め、生ゴミや糞尿は肥料に、燃えるごみは燃料に、金物は再利用にと、循環させることで回していた。果たして、この僕の部屋のゴミ箱のプラスチックや紙は循環することを前提に作られたものなのだろうか。
全ては循環している。製品が作られ、消費し、ゴミとなるという一方通行ではない。消費者である我々が、どれだけの意識を持って物を購入するのか。そして、それが、いつの日か処分される時がきて、その後のことをどこまで考えられるのか。自分たちがやったことは巡り巡って、必ず、この身に降りかかる。どんな世界を望み行動するかは、我々次第である。でも、少なくとも僕個人としては、可能な限り、この美しくも完璧な生態系の中で共存したいとそう願い、悩み苦しみながら、これからも自らの価値観を表現していくつもりである。
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