ばあば

夫、長女、次女が脊髄小脳変性症。長男は発症していない。 2003年に夫、2018年に長…

ばあば

夫、長女、次女が脊髄小脳変性症。長男は発症していない。 2003年に夫、2018年に長女を亡くす。 実母(100歳)、次女(35歳)、長女が残したボストンテリア(6歳)と暮らし、実母と次女の介護生活をしている。 座右の銘は「人間万事塞翁が馬」、口癖は、何とかなる。何とかする。

マガジン

  • SCD家族それぞれの軌跡 [次女篇]

    SCD家族それぞれの軌跡 [次女篇] 全6話

  • SCD家族それぞれの軌跡 [長女篇]

    SCD家族それぞれの軌跡 [長女篇] 全6話

  • SCD家族それぞれの軌跡 [夫篇]

    SCD家族それぞれの軌跡 [夫篇] 全6話

最近の記事

  • 固定された記事

SCD家族それぞれの軌跡1 [夫篇❶]

涙の訳は 私の夫は、母親からの遺伝で、脊髄小脳変性症を発症しました。発症は39歳でしたが、その後、騙し騙し仕事をして5年後の44歳で退職しました。歩行や巧緻動作が難しくなり、誰の目から見ても、限界だと感じる状態でした。長男が中学3年生、長女と次女は小学5年生と2年生の時でした。夫は、ギリギリまで子供たちの為に、精一杯働いたと思います。  無口で我慢強い性格であった夫は、私に愚痴を言ったり弱音を吐くことは、一度たりともなく、私としては有難い反面、物足りなくもありました。そんな

    • SCD家族それぞれの軌跡18 [次女篇❻]

      次女とともに生きる 睡眠不足が続くと、冷静な判断や客観的思考が出来にくくなります。この状態を打開するには、声を上げるしかありません。 「私は限界かもしれない」と。  訪問診療の医師、訪問看護師、障害者相談支援員、保健婦、ヘルパーさんに、現状をありのままに報告しました。そこで対策が練られました。2013年です。 医療的ケアーが必要な利用者を受け入れる生活介護施設に通所する。 定期的にレスパイト入院をする。 週一回、長時間訪問看護を取り入れる。  その後、症状の進行に伴

      • SCD家族それぞれの軌跡17 [次女篇❺]

        私を助けてー 気管切開後は、気管内吸引が必要です。その当時、まだ仕事をしていた私は日中不在になり、次女の世話が出来ません。そこで訪問看護をお願いすることにしました。医療保険で認められる最大限の一日3回の訪問です。 病状観察から始まって、排泄や身体の清拭、気管内吸引、経管栄養、時間に余裕がある時は散歩などをお願いしました。気管内吸引や排泄は、訪問看護師が居ない時にも行わなければなりません。 この時に活躍したのが、今100歳になっている私の母です。当時90に手が届く母に、気管内

        • SCD家族それぞれの軌跡16 [次女篇❹]

          生きるという選択 四六時中次女と一緒にいるわけではありませんので、次女の全てを知っているわけではありませんが、幼少期を除いて、次女が泣いたのは3回です。  1回目は、夫が亡くなった時です。父親が亡くなった報せを受け、学校を早退してきました。物言わぬ父親を見て、声を上げて泣きました。17歳でした。  2回目は、バイト先で高校生のお客様から、「キモイ」(気持ちが悪いという意味)と言われた時です。不明瞭な言葉と、頼りなさげな接客態度をみた率直な感想だったのかもしれません。19歳

        • 固定された記事

        SCD家族それぞれの軌跡1 [夫篇❶]

        マガジン

        • SCD家族それぞれの軌跡 [次女篇]
          6本
        • SCD家族それぞれの軌跡 [長女篇]
          6本
        • SCD家族それぞれの軌跡 [夫篇]
          6本

        記事

          SCD家族それぞれの軌跡15 [次女篇❸]

          今でしょ! 次女が仕事を辞めた頃(21歳)、そろそろ車椅子が必要になっていました。夫と同様に、動けるギリギリまで頑張りました。  車椅子での生活が避けて通れない時が来ることを予想して、バリアフリーの家を新築し、引っ越しました。玄関はスロープをつけ、娘の部屋やトイレは電動扉にし、風呂場は車椅子のまま入れるようにしました。日差しがたっぷり入る南向きの部屋は、明るく快適です。部屋から見える庭には、小鳥も訪れ、季節感が味わえます。身体的な不自由さが増してくるのですから、せめて生活環

          SCD家族それぞれの軌跡15 [次女篇❸]

          SCD家族それぞれの軌跡14 [次女篇❷]

          キーホルダー どの疾患でも言えることですが、信頼できる医師に出会えるか否かが、その後の闘病生活に大きく影響します。私は、夫を診察したことがある知り合いのS医師に、受診の前に手紙を認め、次女の診察をお願いしました。患者が大勢受診する外来診療は忙しく、3分診療と言われています。有難いことに、全ての診療を終えた午後の最後の時間に予約を入れてくれました。医師は問診や神経学的所見をとった後に、血液検査と画像検査のオーダーをして、一回目の受診が終了しました。次の受診時には、病名告知になり

          SCD家族それぞれの軌跡14 [次女篇❷]

          SCD家族それぞれの軌跡13 [次女篇❶]

          受診するタイミング「あれ?何かおかしい!夫と同じ病気かも」と、私が感じたのは、中学の卒業式でした。卒業生が入場行進して来た時に、周りの皆と歩行リズムが微妙に遅れるのです。 次女は小さいころから活発で、運動が得意でした。一輪車も直ぐにマスターして、外で走り回っていました。中学の部活動は、運動部に入部するものと思っていましたが、地味に文化部(何部か覚えていません)を選択しました。「あれだけ運動するのが好きな子が、何故なんだろう」と不思議に思いました。その時から動きにくさを自覚し

          SCD家族それぞれの軌跡13 [次女篇❶]

          SCD家族それぞれの軌跡12 [長女篇❻]

          青天の霹靂 何処までも運に見放された長女なのでしょう。  脊髄小脳変性症と診断された日から2年も経たない2018年2月に、今度は肉腫です。19歳の時に受けた、放射線治療の二次障害だそうです。青天の霹靂とはこのことです。  医師から説明がありました。 「何も治療をしなければ、余命は1か月です」 「副作用が強い抗がん剤治療をしないのも選択肢ですが、どうしますか?」 悩みに悩んで、少しでも長く生きられる可能性にかけ、治療を受ける選択をしました。一時的に肉腫が縮小傾向になった時

          SCD家族それぞれの軌跡12 [長女篇❻]

          SCD家族それぞれの軌跡11 [長女篇❺]

          次女、長女の役に立つ 2018年5月に病名告知を受け、長女はいずれ仕事を辞めなくてはいけないと覚悟しました。それでも仕事への未練がタップリです。職場のご厚意もあり、翌年の3月まで、仕事をすることが出来ました。最初は自転車で通勤していましたが、最後は車になり、駐車場は職場の近くに停めさせてくれました。 自転車に乗って、颯爽と仕事から返ってくる長女の姿を見るのが嬉しくて、時間がある時には、長女の家に行って家事を手伝ってやったものです。自転車に乗っている長女を見るのはこれが最後かも

          SCD家族それぞれの軌跡11 [長女篇❺]

          SCD家族それぞれの軌跡10 [長女篇❹]

          人生ってなんだろう? 数日後、長女は受診する決心をしました。 次女の主治医であるS医師(女医)に、長女の身体症状と精神状態を記したメールを送っておきました。  受診当日は、S医師の外来診察が終わっていました。S医師は、診察室の扉を開いて、自ら長女を招き入れました。すでにこの時から診察が始まっていたのです。長女の歩行状態を観察しています。 S医師は、夫、次女を診てくれていましたし、詳細な症状は予め伝えておいたので、長女の診察室に入ってくる様子で直ぐに診断がついたと、後になって

          SCD家族それぞれの軌跡10 [長女篇❹]

          SCD家族それぞれの軌跡9 [長女篇❸]

          再び試練が 看護師になったものの、肺の手術後でなかなか体力が戻りません。同期生より数か月遅れて、自宅の近くにある、特別養護老人ホームにパートで勤めることになりました。何もできない新人看護師を、よく雇ってくれたものです。勤務条件もピッタリ合い、長女は嬉々として仕事に励みました。  夫の脊髄小脳変性症が母親からの遺伝でしたので、子供たちが発症する可能性が50%であると、医師から言われていました。私は何時もそれを恐れていました。「発症したらどうしよう」と急に不安に襲われたり、「そ

          SCD家族それぞれの軌跡9 [長女篇❸]

          SCD家族それぞれの軌跡8 [長女篇❷]

          看護師免許取得 長女が上咽頭腫瘍を罹患した後、2016 年に脊髄小脳変性症と診断されるまでの間にも色々な出来事がありました。  長女には勿体ないくらいの優しく逞しい男性と結婚し、二人の子供に恵まれました。  主婦だった長女が看護師になりたいと、ある時から突然勉強を始めました。長女が学生時代は、ミニスカートにルーズソックス、厚底靴、ピアス、ガングロ化粧が流行っていました。長女は、ガングロ化粧以外、全て制覇。友達に会うために通学しているような高校時代を送っていました。 親の心

          SCD家族それぞれの軌跡8 [長女篇❷]

          SCD家族それぞれの軌跡7 [長女篇❶]

          ガンをやっつけた 抗がん剤治療中であり、夫の葬儀に出られなかった長女は、19歳の時に上咽頭腫瘍にかかり、2002年11月~2003年3月まで入院生活を余儀なくされました。 抗がん剤と同時に放射線治療も行いました。唾液の分泌が減少し、唾や水を飲むのも辛そうです。口内炎の痛みもあり、食事は涙ながらに摂っていました。入院時50キロあった体重は、みるみるうちに低下します。年ごろの長女は、当初体重が減ることを気にせず、返って嬉しそうでしたが、45キロ以下になるころには、流石にこれでは

          SCD家族それぞれの軌跡7 [長女篇❶]

          SCD家族それぞれの軌跡6 [夫篇❻]

          夫は空に長男25歳 長女19歳 次女17歳で、子供たちは父親を亡くしました。  2003年2月9日の葬儀の日は、前日の雨が上がって朝から青空が広がっていました。大変な出来事が重なった通夜からあまり時間が経っていないせいか、私は気分が高ぶっていました。喪主を務めるという緊張感も加わり、前夜は一睡も出来ませんでした。   夫の棺の中に、長女は夫とのツーショット写真を入れました。 夫が亡くなる3か月前になりますが、長女が振袖を着て、夫がいる施設に見舞に行った時に撮ったものです。

          SCD家族それぞれの軌跡6 [夫篇❻]

          SCD家族それぞれの軌跡5 [夫篇❺]

          まるで小説のよう 夫には、再びクリスマスイブは訪れませんでした。2003年2月6日に夫は天国に旅立ちました。 後一か月すれば、長女が20 歳になる年で、享年53歳でした。最期は療養型の病院で迎えました。夫の希望した通り、胃ろうや気管切開をして体を傷つけることなく、死を迎えました。  義兄と病院に迎えに行きました。その日初めて見る医師と看護師数名とが、深々とお辞儀をして、夫を見送ってくれました。最期はやけに丁寧だなって、半分感心したものです。 同乗してくれた義兄に、「お義兄さ

          SCD家族それぞれの軌跡5 [夫篇❺]

          SCD家族それぞれの軌跡4 [夫篇❹]

          クリスマスイブ 2002年12月、夫が53歳の時、誤嚥性肺炎になり、敷地内にある有床診療所に入院しました。 そこは少し高い場所に位置し、入所施設に比べると格段に綺麗な空間が広がっていました。施設独特の匂いもなく、明るい部屋で入院生活を送ることになりました。入院期間は1~2週間だったと思います。  ある日、医師から今後の治療について説明がありました。食事を止めて、持続点滴と抗生物質を投与するというものです。気管切開や呼吸器を装着することはどうかと尋ねられました。夫はしないとい

          SCD家族それぞれの軌跡4 [夫篇❹]