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SCD家族それぞれの軌跡 [夫篇]

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SCD家族それぞれの軌跡 [夫篇] 全6話
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SCD家族それぞれの軌跡1 [夫篇❶]

涙の訳は 私の夫は、母親からの遺伝で、脊髄小脳変性症を発症しました。発症は39歳でしたが、その後、騙し騙し仕事をして5年後の44歳で退職しました。歩行や巧緻動作が難しくなり、誰の目から見ても、限界だと感じる状態でした。長男が中学3年生、長女と次女は小学5年生と2年生の時でした。夫は、ギリギリまで子供たちの為に、精一杯働いたと思います。  無口で我慢強い性格であった夫は、私に愚痴を言ったり弱音を吐くことは、一度たりともなく、私としては有難い反面、物足りなくもありました。そんな

SCD家族それぞれの軌跡2 [夫篇❷]

娘が父を介護する 障害者支援施設に入所した頃は、室内では手すりを頼りに伝い歩きが可能でした。歩きにくさをカバーする為か、自分にフィットする靴を求めて頻繁に買い替えて、少しでも自立歩行出来る期間を伸ばそうとしていました。時の経過と共に、歩行補助用品、次には車椅子が必要になりました。  当時の我が家は段差が多いうえに、部屋が狭く、車椅子での生活が出来ず、外泊時は部屋の中を、いざって移動していました。また、車から家に入る時は、私が背負うのが一番効率的でした。恰好の良い姿ではありま

SCD家族それぞれの軌跡3 [夫篇❸]

ショックな光景 夫が入所した障害者施設は、他人の手を借りることなく生活できる人が対象でした。入所当時は不自由さを抱えながらも、自分のことは自分で出来ていました。しかし、じわじわと病状が進行して、同じ敷地内にある介助を必要としている人を対象にした施設への移るように打診されました。 しかし、その施設は入所待機者が大勢いて、入所できる目途が全くつきません。私が出来ることは最大限協力するから、何とかこのまま継続できないかと必死で交渉しました。 土日祝日、私の仕事がお休みの日は、昼食時

SCD家族それぞれの軌跡4 [夫篇❹]

クリスマスイブ 2002年12月、夫が53歳の時、誤嚥性肺炎になり、敷地内にある有床診療所に入院しました。 そこは少し高い場所に位置し、入所施設に比べると格段に綺麗な空間が広がっていました。施設独特の匂いもなく、明るい部屋で入院生活を送ることになりました。入院期間は1~2週間だったと思います。  ある日、医師から今後の治療について説明がありました。食事を止めて、持続点滴と抗生物質を投与するというものです。気管切開や呼吸器を装着することはどうかと尋ねられました。夫はしないとい

SCD家族それぞれの軌跡5 [夫篇❺]

まるで小説のよう 夫には、再びクリスマスイブは訪れませんでした。2003年2月6日に夫は天国に旅立ちました。 後一か月すれば、長女が20 歳になる年で、享年53歳でした。最期は療養型の病院で迎えました。夫の希望した通り、胃ろうや気管切開をして体を傷つけることなく、死を迎えました。  義兄と病院に迎えに行きました。その日初めて見る医師と看護師数名とが、深々とお辞儀をして、夫を見送ってくれました。最期はやけに丁寧だなって、半分感心したものです。 同乗してくれた義兄に、「お義兄さ

SCD家族それぞれの軌跡6 [夫篇❻]

夫は空に長男25歳 長女19歳 次女17歳で、子供たちは父親を亡くしました。  2003年2月9日の葬儀の日は、前日の雨が上がって朝から青空が広がっていました。大変な出来事が重なった通夜からあまり時間が経っていないせいか、私は気分が高ぶっていました。喪主を務めるという緊張感も加わり、前夜は一睡も出来ませんでした。   夫の棺の中に、長女は夫とのツーショット写真を入れました。 夫が亡くなる3か月前になりますが、長女が振袖を着て、夫がいる施設に見舞に行った時に撮ったものです。