見出し画像

[短編小説]あの日のロックンロール

   1

 地下鉄の階段を上って外に出ると、眩しい陽の光につい目を伏せてしまう。耳にはずっとイヤホンをつけていて、通学中は音楽の世界に浸っているから、この陽光はそんな私を「現実」に引き戻す目覚ましみたいなもの。地上に出ると学校はすぐ目の前。よく晴れた明るい春の空は、私の暗い心に一層影を落とした。

 新学期にワクワクしなくなったのはいつからだったかな。小学校の時はそれなりに友達がいたけれど、中学に上がった途端、周りの流行についていけずに孤立していった。テレビ番組、アイドル、オシャレ、恋愛… クラスの女子たちが話題にするあれこれに、私は全く興味を持てなかった。自分がこの場にそぐわないっていう事実を、嫌でも痛感しちゃうよね。

 そんな私にとって、もはや新学期だのクラス替えだのというイベントは何の意味も持たないものになった。高校生になった今でも、全然変わっていない。一緒の教室に誰が居たって結局同じだもん。誰とも仲良くなれず、一人で過ごすだけ。他の学校行事も全然楽しめず、体育祭や修学旅行の日はいつも体調を崩したことになっている。

 友達の作り方が、すっかり分からなくなってしまった。毎日がひたすらつまらなくて、うんざりしていた。


   2

「緒方さんって、ピロウズ好きなの?」

 高校2年になってしばらく経ったある日、クラスの男子がいきなり声をかけてきた。長ったらしいグループ活動の授業が終わってぐったりしていたところだったから、不意を突かれてびっくりした。

「そうだけど… 誰にも話してないのに、なんで分かったの?」

「音、ずっと漏れてたし。周りでこういう音楽聴く奴全然いないから、珍しいなって思ったんだよね」

 ウォークマンに繋がっているイヤホンを指差しながら、さっきまで同じ班にいたクラスメイト・鬼塚は、淡々と話した。いかつい名字に反して覇気のない、のらりくらりとした雰囲気の男子。人の声が耳障りで休み時間もイヤホンして塞ぎ込んでいたけど、音、聞こえてたんだ。恥ずかし。

「私もピロウズ知ってる人、周りに全然いなかったよ。私の好きなアーティストって、口にするだけで場の空気を白けさせちゃうみたいで。でも私には好きなものがそれくらいしかないから、人と何話せばいいのか分からなくなっちゃった」

「それでずっと机に突っ伏してたんだ」

 平然と嫌なこと言う。でも同じ音楽を聴く人が身近にいたことは、私にとって大きな衝撃だった。いきなりの出来事だから、今はまだ戸惑いの方が大きいけれど。私、なんか余計なこと喋ってないかな。

「俺はBUMPのカバーから知ったんだけど、緒方さんは?」

「私はFunny Bunny。受験勉強してる時に、深夜ラジオで流れてたのが、なんか良いなって思って」


   3

 the pillowsは、1989年に結成された日本のロックバンド。オルタナティブロックやパワーポップの要素も取り入れた、独特なサウンドが好きなんだ。メディアに顔を出すことがほとんどないから、テレビ大好き、流行大好きな大衆に知れ渡るほどではないけれど、それでもたくさんのファンに支持されてるんだよ。フロントマンの山中さわおが書く、時に熱くて、時に繊細な歌詞も、愛されている理由の一つだと思ってる。

「GIRLS DON'T CRYって、緒方のためにあるような曲だと思うわ」

「何それどういう意味?」

 あれから鬼塚とは時々教室で話をするようになった。向こうは向こうで別の友達もいるから、本当にたまにだけど。互いの好きな音楽の話が中心で、たまにめんどくさい教科担任の愚痴も言い合う。日本史の原田はチャイムが鳴っても延々と喋り続けるし、英語の林田はかわいい女子ばかりを贔屓する。

 「私とは明らかに態度が違う」と愚痴をこぼしていたら、鬼塚がピロウズの曲を持ち出して、ああ言った。GIRLS DON'T CRYかぁ。ピロウズの第3期幕開けとなるアルバム『Please Mr.Lostman』に収録されている、ちょっと不思議な感じの曲。私、あの歌詞の女性みたいに気高い感じじゃないよ。ただ単にどこにも馴染めなくて、一人でいるしか出来なかっただけ。

「人に気にかけられても、大丈夫って遠慮してそうだから」

 まぁ間違ってはいない。実際ずっとそうしてきた気がする。遠慮というよりも、人と関わるのがめんどくさかっただけなんだけどね。

 鬼塚と喋ってないあいだは、今でも一人。ずっとそうしてきたから、今さら何とも思わないし、苦痛でもない。


   4

 文化祭に出たい、と鬼塚が言い出したのは、夏休みに入る前のことだった。私の高校の文化祭では、毎年体育館でダンスやライブが披露されている。ちょうど校内の掲示板に、出場者募集の張り紙があったことを思い出した。ピロウズのコピーバンドを組んで、文化祭に出てみたいらしい。

「流石に突拍子なさすぎるというか。私楽器とか全然分からないんだけど、あんた何か出来るの?」

「実はドラムを少々」

「少々って。第一、私たち2人だけじゃバンドにはならないよ。ピロウズの曲をやるなら、あと2人、メンバー探さないと」

「そこなんだよなあ。俺の周りにも楽器やってる奴いないし、そもそも全然乗り気になってくれないし。緒方が否定せずに聞いてくれたのが嬉しい」

 そう捉えるんだ。でもまぁ、話が急すぎて面食らったところはあるけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。ずっと音楽を聴いてきたから、演奏者としてステージに立つことにも、漠然とした興味はあった。楽器を買うほどのお金はなかったし、何となく無理だろうなと無意識に諦めていたんだけど。

「…まぁ、興味はある。でも人は足りないし、私は本当に何も出来ないし… あ、こういうのどうかな」

 私はカバンから1冊のノートを取り出し、うしろのページをひとつ破る。水性マジックでこう書いて、張り紙の隣にくっつけた。

《the pillowsのコピーバンド、やりませんか?熱くてクール、がむしゃらでクレバー、懐かしいけど新しい、そんなロックンロール!メンバー募集中です。 2-A 鬼塚・緒方》

「即席にしては、やけに手の込んだ文章だな」

「前に読んだ小説で、こんなふうにバンドメンバー募集してるのがあったなって。その小説ではネットやメールでやりとりしてた気がするけど、私はSNSやってないから、こういう古臭いやり方で」

「駆け出しのバンド感あって、いい!」

「すぐ剥がされて先生に怒られそうだし、そもそも人が集まるかどうかすら危ういけどね」

 前者の予感は見事に的中した。けれど後者は、良い意味で覆ることになったんだ。


   5

 私たちの不安定な計画に乗ってくれたのは、同じ学年の松田と佐藤。2人ともギターの経験者だということで、そのうちの1人はボーカルを兼任して、私はベースをやることになった。余りものを選ぶような感じになってしまったけれど、重低音もカッコよくて好きだし、心は無意識に踊っていた。文化祭出場の申請はすんなり受け入れられた。

「佐藤、鬼塚と代わってドラムやらない?より再現度が上がると思うなー」

「俺ドラムしか出来ないから、困るよ…」

 楽器は親に必死で頭を下げて、リーズナブルな初心者セットのやつを買ってもらった。これでもう後には退けないぞ、私。

 夏休みのあいだは、ひたすら家で練習。演奏曲は既に決めてあって、鬼塚からバンドスコアを借り、ギターの2人からタブ譜の読み方を教わった。弦を押さえる位置がそのまま記されているから、私のような楽譜の読めない人間でも曲がコピー出来る優れモノ。スコアとYouTubeを繰り返し見ながら、ひらすらに弦を弾き続けた。部活とか、どこにも入ってなくてよかった。

 新学期が始まる頃には、学校近くのスタジオを予約して、メンバー全員で曲を合わせるようになった。私が通う高校には軽音楽部がなくて、校内で合わせられる場所がどこにも無かったし。楽器を持ったままの登校は、文化祭が終わるまで特別に許可してもらった。私の演奏はみんなと比べてすごく下手だったけれど、鬼塚のドラムに合わせながら、頑張って曲に付いていった。

 というか鬼塚のドラム、少々どころじゃなくめちゃくちゃ上手い。練習の合間に私も叩かせてもらったけれど、普通のエイトビートでさえままならないのに、空白を交えた裏打ちのビートなんて、手足がすぐにこんがらがってしまうほど複雑だった。鬼塚はそれを一定のテンポで平然と叩いて見せる。あいつにここまでの特技があるなんて、想像もつかなかった。

「気を抜いたら一気に色々崩れちゃうから、結構集中しないとなんだけどな」

 スタジオの受付にあるコルクボードには、私が学校でそうしたような、バンドメンバー募集の張り紙がいくつもあった。私の即席手書きクオリティとは違い、どれも丁寧に作り込まれていて熱意が伝わってくる。

「私たちみたいな人が、周りにも結構いるのかもね」

「バンドは1人じゃ出来ないからなあ」

 日差しは春の頃より強くてキツいのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。学校は相変わらずつまらないけれど、今の私はバンドを組んでいて、文化祭ライブという目標もある。それだけで前を向ける自分がいることを、今まで全く知らなかった。ずっと何かに打ち込めるものがなかったから。

 なんか今、すごく楽しい。


   6

 時間の流れって、こんなに早く感じるものだったんだ。文化祭の本番は10月。コピーバンドの結成から2ヶ月ほどあるし、始めは余裕だと思っていたのに、ひたすらにベースと向き合っているとあっという間に月日が過ぎていった。

 文化祭当日、私たちが演奏するのは3曲。Funny Bunny、ハイブリッド レインボウ、LITTLE BUSTERS。ベタな選曲だろうけれど、まぁ学生のコピーバンドってこんなもんだよね。

 ライブの本番は… 本当に一瞬だった。ステージに立っていた時の記憶はあんまりないけれど、たくさん間違えたことだけは分かる。それでも演奏を止めることなく、曲には付いていくことは出来た。鬼塚のドラムのおかげだ。時々うしろに目を向けると、鬼塚の奴、楽しそうに演奏しててこっちまで顔がほころんでしまう。そんな状態で、何度か目が合ったりもした。

「あの、ピロウズって、皆さん全然知らないバンドだと思うんですけど。良い曲たくさんあるんで、これを機に少しでも、興味を持ってくれたら嬉しいです」

 ボーカルはギターの1人・松田にお願いする形になったけど、MCは事実上のリーダーである鬼塚がやることになっていた。たどたどしい話が、まばらな観客にどれだけ伝わったかは分からない。私も含めたメンバー全員が日陰寄りの人間だし、誰かに影響を与えられるほどの自信はない。だけどここから、ここから誰かのきっかけに繋がればいいなと願った。ピロウズが好きな、新しい友達が出来たらいいな、と。

 歌う余裕もないくせに、最後の曲では目の前にあるマイクに向かって叫んでいた。全力だった。私たちは全力でライブを、バンドを、ロックンロールを楽しんだ。

「アウイェー!!」


   7

「俺のわがままに付き合ってくれて、ホントありがとう」

 ライブの本番が終わり、労いと一呼吸を置くと、松田と佐藤は「クラスの模擬店のシフトがあるから」と言って早々に解散した。自分のシフトまで時間のある私と鬼塚は、中庭のベンチでぼんやり休憩していた。バド部の模擬店で買ったスムージーを飲んでいる。

「私も楽しかったから、全然いいよ。いっぱいミスって申し訳ない」

「自分の演奏ばかりに集中してたけど、ほとんど違和感なかったよ。合わせやすかったし。観客はそんな多くなかったけど、みんな割と楽しんで聴いてくれてたから、ライブは成功じゃないかな」

 そういえば観客なんてほとんど見てなかったな。ずっと自分のことで精一杯で、曲に付いていくために時々ドラムの方を向いていただけ。でも鬼塚が言うほどだから、ライブは成功だったに違いない。よかった。スムージーの冷たさを忘れてしまうほどの余韻に浸る。

「やっぱり、音楽って楽しい」

 つい聞き流してしまいそうな小さな声で、鬼塚が呟いた。

「やっぱり?」

「うん。俺、中学でも音楽やってて。でもあの時は楽しむ気持ちが全然なくって、ただやらされてただけって感じだった。」


   8

 鬼塚は、言葉を選ぶように一瞬黙ったけれど、やがて照れくさそうに、しかし淡々と話し始めた。

「中学の時、吹奏楽部にいてさ。いちおう県内ではそれなりに強いところだったんだ。俺は姉の影響で何となく打楽器を始めたんだけど、ちょうど入部したての頃に、部が急に強くなっちゃって」

 部活の練習がどんどん厳しくなっていったこと。毎日連帯責任に巻き込まれて怒られ続けていたこと。打楽器パートの中では自分がいちばん下手で、リズムも合わせられずいつも責められていたこと。土日も夏休みも冬休みも春休みも毎日練習の日々で、ずっと休みがなかったこと。顧問を含めた周りの目が怖くて、どれだけしんどくても部活がやめられなかったこと。

「中3の時にコンクールの全国大会までいったんだけどさ、正直何も感じなかったよ。あんなにつらい思いしたのに、達成感とか全くないの。周りの奴らは泣いて喜んでたけど、全然気持ちが分からなかった。俺の中学の3年間、心をすり減らしただけで終わったんだ。仲の良い友達もいたはずなのに、共通の話題とか、遊びに誘う方法とか全部分からなくなって、気付いたらずっと一人だった」

 一人。私と同じだ。自分から逃げるようなことをした私と比べるのもおかしいかもしれないけど。


 …だけど、ひとつだけ、分かることがある。

「それでも、音楽は辞めなかったんだ。こうして、バンドやりたいとか言って」

「死ぬほど苦痛だった音楽だけど、それでも、ロックバンドの曲は良いなって思えたんだ。中でもピロウズは特別で。ハイブリッドレインボウの、『ここは途中なんだって信じたい』って言葉に、あの時すっごい救われてさ。ずっとおまじないみたいに自分に言い聞かせてた。ここが終わりじゃない、ここを抜け出した先には、きっと良いことがあるって」

「その『良いこと』を見つけるために、一歩踏み出した」

「最初は夢物語くらいに思ってたんだけどな。自分と同じ音楽聴く人なんて、本当に誰もいなかったから。でも、緒方がいた。仲間が1人いるんなら、もう1人、またもう1人って見つかって、案外何とかなるかも…って。今思ったらたいぶ安直な考えだったかもだけど… 」

 だけど、鬼塚が――

「緒方が、あの時否定しないでくれたから、メンバー集めに踏み切ってくれたから、ここまで実現出来たんだよ。ライブは上手くやれたか分からないけど、俺はすごく楽しかったし、幸せな時間だったよ。本当にありがとう」

 なんであの時、あんなすぐに体が動いたのか分からなかったけれど、それも何となく分かってきた。鬼塚がバンドに誘ってくれたおかげだよ。

「私は、鬼塚が部活続けていてよかったって思ってる。途中で辞めちゃってたら、あんなに上手いドラムは叩けなかったよ。今日のライブは、絶対に成功。私の方こそ、ありがとうね」

 鬼塚がクシャっと笑う。本当に良かった。

「それにね。バンドとかライブを通して、私も得られたものがあったから。結果論だけど、私たちウィンウィンだよ。ウィンウィン」

「得られたものって…楽器が弾けるようになったこと?」

「ううん。何というか、ちょっとした気付きなんだけど…」

 これは、私にとっての『音楽の話』。


   9

 私は音楽が好きだ。音楽が好きで、ずっとそれを聴くのが習慣になっている。そこに深い意味なんて考えたことはなかった。鬼塚の話と、私自身のこれまでを重ねながら、やっとその「意味」が分かった気がする。

「私、ずっと空っぽだったんだ。生まれてきてから特に大きな失敗も、つらいこともなかったのに。最初から、みんなが好きないろんなものに興味が持てなかった。自分のことは自分がよく知っているって言葉があるけど、私は私自身がずっとおぼろげで、何がやりたいとか、そういう前向きな意思が全然なかったんだよね」

 だけど、音楽は違った。音に乗せて耳に伝わる言葉だけは、違った。心の奥底に刺さるものと、刺さらないもの。その区別が出来た。音楽を、ロックンロールを聴くことで、私はこういう言葉に感動する、心が動かされるというのがハッキリ分かったんだ。

 私にとっての音楽は、私自身を形作るための「型」だ。私の自我や思考は、液体のように形を持たない曖昧なものだった。考えても考えても、自分がどういう人間で、どんな考えを持っているのかが、ずっと分からないままだった。そんなどろっとしたものが形にならないまま、広がって無くならないように、留めるための型。本当の自分を、を目いっぱい表現するための型。

 私は好きなロックバンドの音楽に自分を重ねることで、「私はこういう人間なんだ」と、少しずつ自分自身を理解してコントロール出来るようになったんだ。趣味の合わない友達から離れたのも、積極的にバンドメンバーの募集に乗り出したのも、全部私自身がそうしたいと判断して選んだものだ。私の意志だ。

「すごく素敵だし、カッコイイ。今までそんなふうに考えたことがなかったから、緒方だけの価値観だ。違いない」

「言葉にすると、だいぶ照れくさいね。でも確かに私の本心だよ。何で音楽が好きかなんて考えたことなかったけど、今、点と点がつながってスッキリした」

「それも、『音楽』を通して気付けた」

「ほんとにそうだ」

 これが人として正常なやり方なのかは分からない。たぶん私が変なんだと思う。けれどそう定義することで、私は救われた。バンドを組んでライブをして、鬼塚という友達が出来て、それに気付けた。もっと幸せになれる選択肢があったのかもしれないけれど、これでいいんだ。今は最高だから、これでいい。

 空っぽだった私に、「型」が出来た。そこにはたくさんの大切なものが詰まっている。


* * * * *


   10

 地下鉄の階段を上って外に出ると、不安と疲労で自然に息が切れてしまう。ヒールの高いパンプスにはずっと慣れなくて、コツコツと不自然な音を立てて滑稽に歩いている自分が、心底嫌になる。こんな靴に憧れる女性の気持ちなんて、私は一生理解出来ないんだろうな。地上に立ち並ぶ大きなオフィスビルの数々は、今日も私を嗤うかのように見下している。勤め先の会社までの道のりが、このまま永遠に続けばいいのにと思う。

 私は今、25歳。東京で社会人として生きている。


 文化祭でライブを披露した高2の秋。あれ以降も、特に私の人生が華やかになることはなかった。たまたまライブを見に来ていたクラスの何人かと仲良くなって、前より一人じゃなくなったことは大きいけれど。

 鬼塚とは、ライブをきっかけに親密な関係に… なんてことにはならなかった。お互い、そっち方面は疎かったんだよね。ほとんど以前と変わらない温度感で、まぁ仲良くやってたよ。そういえば春休みに一度、2人で隣の県まで行って、ピロウズのライブを観た。初めての生ライブは、自分がステージに立った時よりも非現実的であっという間で、熱狂的な時間だった。

 せっかく始めたベースだけど、高3になると大学受験の勉強で触っている暇なんかなくて、気付けばホコリを被っていた。楽器は今も実家の押し入れにしまってあるんじゃないかな。


 文化祭ライブのあと、私が見出した気持ちは確かに本物だった。でも社会に出ると、いち個人の感情なんてどうでもよくあしらわれてしまう。どこかの本には「労働で自己実現」なんてことが書かれていたけれど、大きな組織に属していると、そんなのしょうもない綺麗事だなって思わされるよ。本当にバカみたい。

 会社ではみんながみんな、完璧に仕事をこなせる要領のよさと、人並み以上のコミュニケーション能力を求められる。私は社会人1年目で、その両方につまづいた。特に、これまで改善する努力をしなかったコミュ力の低さで、いろんな人を誤解させ困らせた。

 今になってハッキリ分かる。私はやっぱり弱い人間だ。優秀な能力も、誰かを惹きつける魅力も持っていない。それを思い知った時は深く落ち込んだけれど、次第に何とも思わなくなった。少しずつ仕事を覚えても、私自身が抱えている致命的な欠陥は、ずっと改善されない。むしろ良くない部分はどんどん悪化している気さえして、心や感性が以前より鈍くなった。鬼塚が中学の頃、部活で苦しんでいた気持ちが何となく分かる。

 最近始めたSNSで、鬼塚が結婚することを知った。嬉しさよりも、正直、行き場のない虚しさが勝った。

「置いてかれたな」

 私はこの先どうしたいんだろう。何も分からなかった中学の頃に、戻ってしまったみたいだ。あの頃よりも自由で、お金もあって、いくらでも好きなことが出来るはずなのに、どこにも行けない。地元に帰りたいとも思えない。虚しさの堂々巡り。私は疲れてしまっている。

 またライブに行こう、と思った。音楽を聴こう、と思った。大好きなミュージシャンが歌う、たくさんの言葉を浴びよう、と思った。それで大きく何かが変わるわけではない。いきなり立派な人間になれるはずもない。でも私は、きっとそうやって生きていくしかないんだよね。周りの色に馴染めないはみ出し者、それが私。そんな惨めでどうしようもない人間さえも肯定してくれる人が、場所が、音楽がある。それを実感すれば、まだこの息苦しい世界を生き延びていける気がするから。

 ここが終わりじゃない。生きていて何かをしていれば、いつか抜け出せた先できっと良いことがある。これからその新しい一歩を踏み出す友達の言葉を、何度も噛みしめた。

――結婚おめでとう。幸せにね。


 SNSを見ていると、ひとつの投稿が目に留まった。あの日の衝動を少し思い出して、表情が緩んだ。

《the pillowsのコピーバンド、やりませんか?》

 (了)


↓あとがきのような何か↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?