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カラヴァッジョの2枚の<エマオの晩餐>

<違和感

「あれ?こんな絵だっけ?」

 ミラノのブレラ美術館の一室で、私は首を傾げた。

 タイトルは’Cena in Emaus(エマオの晩餐)'、作者はカラヴァッジョ。強烈なまでの明暗のコントラストと、大ぶりなジェスチャーによるドラマチックな画面が特徴的なバロック初期の画家だ。

 凶暴な性格を反映するかのように血なまぐさい場面も多く、本人も殺人を犯し、逃亡を余儀なくされた。

 そんなエピソードを思い起こしていると、余計頭がこんがらがってくる。

 静かすぎやしないか?暗い画面は、確かにカラヴァッジョらしいといえばらしいが、前に何かの本で見た<エマオの晩餐>はもっと違ったような気がする…。

 一体どうなっている?

<エマオの晩餐>は2枚ある

 当時の私にとって、カラヴァッジョの<エマオの晩餐>といえば、このロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の絵だった。

カラヴァッジョ、<エマオの晩餐>、1601年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー(wikipedia

 そして、ブレラにかけられていたのは、この絵。

カラヴァッジョ、<エマオの晩餐>、1607年、ブレラ美術館(wikipedia

 今思うと、間抜けな話である。無知にもほどがある。

 言い訳をさせてもらうなら、当時の私は、イタリア美術に興味があったとはいえ、その関心はルネサンスに向いていた。

 フィレンツェの画家ならボッティチェリやフィリッポ・リッピ、ヴェネツィアの画家ならティントレット。

 白状すると、彼らより後の時代に位置するカラヴァッジョについては、通り一遍のことしか知らなかったのだ。

 ローマ時代と、殺人を犯し逃亡生活を送った時代とでは、作風も変わった、ということなど想像しようがない。

 ましてや、同じ主題を、違う時代にそれぞれ描いていたなどと。

ロンドン版とミラノ版

 それにしても、二枚を比較して見ると、同じテーマでも雰囲気が全く違う。

 <エマオの晩餐>は、エマオへと旅する二人の弟子の前に、復活したキリストが姿を現した時のエピソードを描いたものだ。

 当初、キリストは見知らぬ旅人の姿で現れたために、弟子たちは正体を知らないまま、彼を夕食に誘う。彼がパンをちぎり祝福するのを見て、二人はその正体を悟るが、その時にはキリストの姿はもう影も形もなかった。

 ロンドン版では、髭のない姿で描かれたキリストが、片手をあげて祝福し、弟子二人は身を乗り出し、椅子から立ち上がりかけた姿勢で、驚きを表現している。

 壁に映る影、そしてこちらへと伸ばされる手はリアルで、一歩進めば絵の中に入り込めるのでは、とも思えてしまう。まるで自分もエキストラか何かの役で、この場に参加しているかのように。

 テーブルの上には、パンの他にもチキンやら、果物籠やら、美味しそうな食べ物が並んでいる。描写のリアルさは、静物画も手掛けたカラヴァッジョらしい。

 劇的なジェスチャー、迫真的な静物描写、強いスポットライトを当てたような明暗表現など、「カラヴァッジョといえば」思い浮かぶ要素が詰め込まれている。

 蝋人形館あたりで、このような場面が再現されていても、不自然ではあるまい。


 対して、ミラノ版は、まず画面が暗い。テーブルの上には、最小限のものしか置かれておらず、人物たちの身振りも控えめだ。

 電気のなかった時代、蝋燭などに頼らなければならなかった時代の夜、とはこのようなものだったのだろうか。

 微かな身じろぎの音すらも響く、そんな空気の中で、旅人が気取りのない、自然な仕草でパンをちぎる。唇から漏れるささやくような穏やかな言葉に、同席していた二人の弟子は驚き、旅人を注視する。

 宿の主人や給仕の女性も、何やらただならぬことが起きている、と気づいているらしい。

「まさか、貴方は……」

 しかし、旅人がそれに答えることはない。しばらくすれば、闇に溶けるようにして消えてしまうだろう。

 その寸前の、緊張感ただよう一瞬が、ミラノ版では描き留められている。

 このミラノ版は、人を殺してローマから逃げ出したばかりの頃、潜伏生活の中で描かれたとされている。

 逮捕されれば確実に死罪。今は無事でも、明日はどうなるか。いつまでここに隠れて居られるか。

 不安と恐怖に苛まれる日々の中で制作された。

 そして、彼の心情を反映するかのように、晩年の彼の絵は、暗く不気味なまでに静かだ。

 深い深い井戸の底をのぞき込むかのように。

カラヴァッジョ、<受胎告知>、1609年頃、ナンシー美術館


カラヴァッジョ、<ゴリアテの首を持つダヴィデ>、1609~10年、ボルゲーゼ美術館

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