手放した2022、ふたたび綴る2023
今まで頑張ってきたこと、積み重ねてきたこと、これからも続くと思っていたこと、いわゆる「執着」を手放した1年でした。
なにかに「執着」することは、なにかに「盲目」になることを意味します。なにかを「肯定」することは、なにかを「否定」することを意味します。執着も、盲目も、肯定も、否定も、2022年のわたしには必要がなかった。それらすべてがわたしの心の回復を、わたしが進もうとしている足を、止めようとしている気がした。だから、とにかく捨てて、逃げて、歩ける道だけを歩こうと努力しました。
わたしの一部だったnoteからも離れました。文章を書く、という行為は、心と対峙することと等しいと思っています。目まぐるしく変化していく環境に、人間関係に、生活に、ついていくのがやっとなのに、膨大な心の変化にまで対峙していたら、わたしが潰れていなくなってしまうと思った。向き合えば向き合うだけ、心の奥深くに眠っている悲しみに気づいてしまうと思った。
だから、書くのをやめました。
生き延びるためには、なにかを犠牲にしなくてはならないわけで、この世のすべてに気づいていたら心が死んでしまうわけで、わたしは今日まであらゆることを手放して生き延びてきました。前向きに未来のことを考え、自己分析をし、To Doリストを作成し、自己啓発本を読みながらビジョンを描いていたあの頃のわたしとは正反対の生活です。今日の夜ご飯はなにを食べようとか、明日の仕事のために寝ようとか、たまに遊んでみようとか、生きるために至極真っ当なことを淡々と考えて生活するまいにちでした。今が、過去が、良いとか悪いとか、ポジティブとかネガティブとか、そんな目先の評価よりも、明日生きているかどうかのほうが大切でした。
結果的に、たくさんのお金と労力をかけて与えてくれたものを、わたしは自ら手放してしまった、未来を描くことから逃げてしまった。いろんなものを、失ったのかもしれません。
それでも変わらなかったこと。それは、わたしが美しいと感じるものを、写真として記録することでした。というより無意識に、身体が美しいものにむかって動き出すことを止められませんでした。
たとえば、大切なひとに会いにゆく途中に広がる、夕焼け。
たとえば、大好きなアーティストのライブ帰りに覗く、都会の光。
たとえば、仕事で疲れた心身を癒やす、キャンドルの炎。
この光、きれいだな、と思って撮った写真。この花、かわいいな、と思って撮った写真。それらが写真フォルダに溜まっていくたび、「わたしの感性は死んでいない」と確かめることができました。何年経っても変わらない、わたしの感性。言葉。思考。生き方。
手放すことが増えるたび、変わらないことが鮮明に浮かび上がってきて、だいすきなものも大切にしたいこともやりたいことも、はっきりと分かるようになりました。
だから、ふたたび、noteを書いています。
これからの生き方も、noteとの向き合い方も、しばらくは「自分が明日も生きてゆくため」であることは変わらないと思います。でも、わたしがこれからどんなふうに表現をしていくのか、どんな言葉を生み出していくのか、自分でも見当もつきません。それすらも楽しめたらいいな、なんて陽気に考えています。
更新頻度が減っても、まいにちに追われても、またこうしてあなたに読んでもらえることを心から感謝しています。いつもありがとう。
また、よろしくね。
アズ
「温かで穏やかな光を見失わず、貴方が生きていけますように。」 そんな気持ちでnoteを届けています。 気に入ってもらえたら【スキ】【フォロー】 さらに【サポート】で応援して頂けるととっても光栄です。