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何をするか、どう在るか

この春から関西に移り住み、実験的に新しい暮らしをしてきた。

会社に勤めるとかそういうことではないけれど、好きな領域で新しい役割をいただき、奮闘する毎日。
だがしかし、これがなかなか修行のような日々でして、涙目で落ち込むこともしばしば。

好きなことに関われている喜びを感じながらも、梅雨前から「自分を失っていく」感覚がどんどん大きくなり、これはまずいと思い始める。

役割をこなすことに必死になりすぎた。
大切な人たちと連絡を取る余裕すらない自分に嫌気がさすし、引越したばかりということもあり、日々関わる人たちの範囲が狭くて、窮屈に感じてしまう。

既定路線で会社員している時もこういう感覚はあったけれど、自分でやると決めた好きなこと、やりたくてやっていることでも、何かがうまくいっていないとこういう感覚になるというのは盲点だった。

好きなこと、やりたいことをすれば、なんでもうまくいくわけじゃない。
そりゃそうなんだけど、元企業戦士からすると、好きなことしてたら無条件で良いみたいな感覚がどこかにあったのかもしれない。

夏至の時点で一区切りつけようと決めたものの、決めただけでなかなか抜け出せずに同じ生活を続けていたら、この夏、盛大に寝込んでしまった。

寝込みながら思った。
「私、会社員時代とやってること変わってないな」

会社を辞めて、会社員という肩書きからは自由になったし、働く場所や相手は変わったけれど、働く姿勢(=私の場合は、とにかく相手or会社に尽くす)は、全く変わっていなかった。

移住してからは、関わる人々にとにかく尽くしてきた。
これまでやってきたことの究極形をやっていたのではないか?!と、はっとした。私がそのことに全然気づかないもんだから、こんな究極形までやって来たのかしら...。

私にとって「尽くすこと」は慣れ親しんだ行動で、すごく大変というわけではない。むしろ、どこかラクに感じるところもあったりする。

それはたぶん、尽くすことと引き換えに自分が中心に立つと生まれる責任から逃れられているから。
でも結局、いつもどこかのタイミングでもやもやしてくる。

そんなことを考えていた時、少し前にとある方から「本当は何もしなくてもあなたのままでいれば愛されるのに」と言われたことを思い出した。

最近の私は「心(魂)が望んでいることをする=何をするか(Do)」ばかりに敏感になって、「どう在るか(Be)」は完全に無視していたなぁと、ふと思う。

同時に「どう在るか(Be)」を変えたら、というか"自分のまま"に戻したら、「何をやるか」とか、「どこでやるか」とかは、案外どうでもいい(といったら語弊があるかもしれないけれど、選択肢がかなり広がる)のでは?とも思ったりした。

「尽くすこと」から卒業して、相手と「対等な関係」を築くこと。
自分が中心に立つこと(責任を取ること)から逃げないこと。

今の私に必要なのは、何をするかじゃなくて、たぶんこれらなのだ。

ここ数年、私の魂は何を望んでいるのだろうか?とか、私はこの人生で何をするのだろうか?とか、そういった類のことをたくさん考えてきた。
いろいろなことにチャレンジして、時間もお金もたくさん使ってきた。
まさに人生迷子。

自分のやりたいこと、やるべきことのようなものを見つけよう(見つけなきゃいけない)と焦っていたし、必死だった。

心の声を聴くことや、魂の望むことをすることは、生きていく上でとてもとても大切だ。
でも、そこに固執しすぎる(そうしなきゃいけないと強く思ってしまう)があまり、見えていなかった世界もあるのかもしれないなぁと、今はちょっぴり思ったりする。

会社を辞めていろんな荷物を降ろしたつもりが、また違う形で荷物を背負ってしまっていたみたいです。

自然体(そのまんま)で、その時の心地よさに従って生きていたら、それ以上に必要なことなんてないのかもしれない。

自分や人生のことを難しく考えたり、無理に言語化しなくてもいいのかもしれない。

最近そんなふうに思えるようになって、だいぶチカラが抜けました。
そうしたら、自分の真ん中みたいなものが、少しだけ見えてきた気がする。

ということで、自分の心地よさを大切すべく、この秋からいろいろと軌道修正する方向に舵を切ることにした。

新しい暮らしを始めたばかりだけれど、また新しい暮らし始めてしまおうと思っている。何度新しくしたっていいよね。

どんな道でもこれが私の生きる道。
変わっていくことを楽しもう。


愛と感謝を込めて。

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