心の奥の「ありがとう」
テストで80点を取ったとして
「次はもっとがんばり!」
と言うのが母で
「すごいなぁ。よくがんばったな」
と言ってくれるのが祖母だった。祖母はどんなときでも、私を肯定し、味方でいてくれた。私が大きくなっていく過程で、それぞれの接し方はどちらも必要だったと思う。
6月22日、祖母は88歳で亡くなった。思えばこのnoteは、元気な祖母と最後に電話をした後に書いたものだ。
亡くなる一週間前、いつ何があってもおかしくないと知り、娘と二人で甲子園に住む祖母に会いに行った。神戸の妹と姪たち、名古屋の妹家族も同じ日に集まった。元気なときからずっと
「入院はしたくない。家がいい」
と言っていた祖母。心不全の治療を訪問医療で受けていた。
私たちの顔を見ると
「大丈夫やから」
と言いながら、しっかりと手を握ってくれた。泣いている私と娘に
「もうちょっとしたらいっぱい泣かなあかんねんで。遠いのに、またすぐ来ないとあかんねんし、無理せんでよかったのに」
とブラックなことを言っていた。
「よく言うわ」
と返せば
「ははは」
と笑い声まで聞かせてくれた。私たちの問いかけにしっかり答えている祖母を見て、毎日のように会いに行っていた神戸の妹が、昨日までは声を出して返事をすることも難しかったと教えてくれた。
部屋で祖母と二人になった。手を握って、一番伝えたいことはなんだろうと考えた。すぐに言葉が出てきた。
「子供の頃からずっと味方でおってくれてありがとう」
私の言葉に強く手を握ってくれた。祖母が亡くなった後、神戸の妹も最後に全く同じ言葉を伝えたと聞いてびっくりした。味方でいてくれた祖母の存在は、どれほど大きく心強かったことか。
「子供の頃お花見行ったん憶えてる?」
と聞けば手を握ってくれた。
「のんちゃんが犬のうんち踏んで、おばあちゃん靴洗ってたよな」
と言えば、またギュッと手を握ってくれた。思いのほか強い力に驚くほどだった。
私が小学校六年生のときに遠足で行った奈良。祖母にお土産で買った小さな鹿の置物を、30年経った今でも家に飾ってくれていた。その鹿の置物を見せながら
「これ、貰って帰っていい?」
と聞くと
「いや、置いといて」
と言われ、元の場所に戻した。
「おばあちゃん大好きやで」
何度も何度も伝える私に
「ありがとう。みんなかわいいなぁ」
と答えてくれた。
「私が一番かわいいやろ」
と冗談を言えば
「せやせや」
と嬉しそうに返してくれた。こうやってやり取りを重ねながら、心の中でもう会えなくなるんだと、話せなくなるんだと強く強く思っていた。祖母の家を出る前は、いつものように
「じゃぁ、また来るわ。無理しいなや」
と声をかけると、ピースを返してくれた。最期まで、祖母は祖母だったなと思う。
会いに行ってから一週間後、神戸の妹が見守る中、祖母は自宅で息を引き取った。亡くなった翌日、私は去年の秋から勉強していた産業カウンセラーの学科試験を受けた。試験が終わってlineを見ると、妹たちから葬儀の連絡が届いていた。帰ってすぐに娘と二人分のホテルを予約した。亡くなったことはわかっているものの、どこか現実感がなかった。
葬儀の前日、娘と一緒に祖母の家に行った。10日前に来たときと同じベッドで祖母は眠っていた。でも、いつものように
「よく来たなぁ」
と言ってくれることはなく、本当に亡くなったんだと心で納得し、強い悲しみが押し寄せてきた。飾ってあった鹿の置物を祖母に見せて
「これ、貰って帰るわな」
そう声をかけた。
その鹿は今私の部屋に飾っている。それから数時間。妹たちと祖母の事をたくさん話した。娘が折り紙を持ってきていたので、私も子供の頃以来やっていなかった折り紙で鶴を折ってみることにした。折り紙は子供の頃祖母がよく教えてくれた。一つ作業が進む度に
「そうやそうや。上手やなぁ」
と褒めてくれたことを思い出しつつ、手が憶えていたところまで鶴を折り進めていった。途中でわからなくなったところは、妹に少し助けてもらい無事に完成した。
出来上がった鶴は祖母の棺に入れた。
母を見送って三年半経ち、祖母もいなくなってしまった。私を作ってくれた大切な人たちともう話せないこと、会えないこと、寂しく悲しい気持ちでいっぱいになる。でも、心の奥に残る大切なものはたくさんの
「ありがとう」
だ。朗らかで面白かった祖母。
「うちは世界でいっちばん幸せやわ」
浮かんでくる声はいつも優しいものだ。
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