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世界一のおばあちゃん

「うちは世界でいっちばん幸せやわ」

これが祖母の口癖だ。その後に

「日本一ちゃうで、世界一やで」

と付け加えるのも忘れない。祖母に会うのは多くて年に二回の帰省で、それ以外は定期的に電話をしている。話す度に、さっきの言葉を必ず言ってくれる。

「それはええことやなぁ」

と返しながら、言葉の裏側にはきっと寂しい気持ちが隠れているんだろうと想像する。娘を連れて帰省しようと思っている日にちを伝えれば

「ええよええよ。うちその日仕事休み屋から」

と返ってくる。

「よかったわ。て、仕事してへんやん!」

と突っ込めば

「そうやったなぁ」

と言いながら、「ははは」と元気な笑い声。

何度か電話をしても出なかったことがある。

「どこか行ってたん?」

と尋ねれば

「そうそう、ちょっとハワイまで」

と言って笑わせてくれる。

母が亡くなって3年半になろうとしている。ヘルパーさんに入ってもらいながら祖母は一人で生活を続けている。

「みんな良くしてくれる」

と言って、元気そうには見えるのだが、実際会うと確実に衰えを感じる。祖母は88歳。
母が亡くなった今、子供の頃からの私を身近で知ってくれているのは祖母だけになった。小さい頃から厳しかった母とは対照的に、祖母はいつもどんな時も優しかった。

「すごいなぁ、がんばったなぁ」
「えらいなぁ、よくやってるなぁ」

子供の頃のように褒めてくれるのは、40歳を過ぎた今でも変わらない。母が亡くなってから、祖母の寂しい気持ちが少しでもましになれば、気晴らしになればと思い電話をしてきた。でも、昔から変わらない祖母の元気な声と笑いの絶えない会話で、母が亡くなった寂しさが薄らいでいるのは私の方だ。祖母のためだと思っていた電話が、私自身が母を無くした喪失から立ち直るために祖母の力を借りていたとわかった。
祖母の作る料理はどれも本当においしかった。味のしみた肉じゃが、ふんわりした卵焼き、柔らかい魚の煮付け。どれも子供の頃に食べた記憶が残っている。中でも、お味噌汁の味はよく覚えている。豆腐のお味噌汁、母が作る絹ごし豆腐とは違って、木綿豆腐だった。豆腐のざらっとした食感を楽しみながら「おばあちゃんちのお味噌汁」はこれだなと思って食べていた。

「いっぱい食べや」

そう私たちに声をかけながら、ご飯だけでなく手作りのおやつもたくさん作ってくれた。
食べ物で思い出すことがある。阪神淡路大震災。
当時住んでいた神戸市東灘区の実家が半壊し、私たち家族は数日間避難所で過ごした。テレビもない、新聞も読めない、インターネットもスマホもなかった時代、自分たちがどれほど大きな災害に見舞われたのか、私には知るすべがなかった。祖母のことが気になってはいたものの、もちろん電話も繋がらない。叔父と一緒に暮らしているので、二人とも無事でいてほしいと思っていた。
震災から数日経った日。避難所になっている体育館に祖母が現れたのだ。当時の祖母は60歳を過ぎた頃だったと思う。

「どうやって来たん?」

と尋ねれば

「電車が動いてないから、自転車で来た」

と返ってきた。私の家と祖母の家は、電車とバスを乗り継いで30分ほどかかる。
通れなくなっている道、崩れた家、それらを見ながら私たちの安否もわからない中必死に自転車をこぐ祖母の姿を思うと、今でも胸が詰まる。

「何も食べてないやろ」

と言って、おにぎりをたくさん作ってきてくれた。一緒に避難していた三組の家族で味わって食べた。
帰省したときは祖母とおいしいものを食べたいと思っている。一緒に食卓を囲むことで、会話が生まれる。最近のこと、子供の頃のこと、母のこと…。慣れない場所で買い物をしたり私が料理をすることが難しく、百貨店でお弁当とデザートを買って行くことが多い。

「おいしいなぁ」

と言って食べていると、子供の頃に戻ったような気持ちになる。

「食べられるだけでいいからな」

声をかけると

「誰かと一緒にご飯食べてたら、いっぱい食べられるわ」

と嬉しそうに答えてくれた。

祖母の家を出るとき、以前は家の前まで見送りに来てくれていた。少し前までは玄関まで見送りに来てくれていた。今は思うように立ち上がれず、ダイニングテーブルの前に座ったままの祖母に

「じゃぁ、また来るわな。無理したらあかんで」

そう声をかける。

「気を付けて帰りよ」
差し出された祖母のさらりとした小さな手をそっと握った。

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