【井戸尻考古館】建館50年の日、トークイベント(2024.4.30)
はじめに
富士見町の井戸尻考古館がこの地に建設され50周年を迎えました。
井戸尻考古館では、建館50周年記念ミニ企画展示「井戸尻考古館ができるまで」(2024.4.30~6.30)を開催しています。
50周年の当日である4月30日には記念トークイベントが行われました。
大型連休の谷間の夜ですが、当時高校生として発掘調査に参加し、その後長野県考古界でも著名な研究者になられた高見俊樹氏、三上徹也氏からお話を伺うものです。
建館50周年記念ミニ企画展示はこちらをご覧ください。
建館50年
井戸尻考古館では開館50年ではなく「建館50年」といっています。
旧井戸尻考古館は、現在地より北に位置する富士見町役場境支所(現信濃境公民館)を間借りする形で1959年(昭和34年)に開館しました。
その後考古館が手狭なったことや防火上の観点などから、収蔵庫及び考古館の建設が進められました。考古館の完成式典が行われたのが1974年(昭和49年)4月30日でした。そのような経緯から4月30日に「建館50年」のイベントが開催されました。
井戸尻の歴史は夜つくられる?
新築された井戸尻考古館の完成式典が1974年(昭和49年)4月30日、一般公開は翌5月1日でした。あえて、4月30日に合わせてミニ企画展示も始まりました。
トークイベントは19時より開催されます。平日にまさかの夜開館、ナイトミュージアムです。続々と駐車場に車が入ってきます。
参加者は入館時に「建館50周年記念 オリジナル缶バッジ」をもらいます。K館長自ら缶バッジの入った箱を持って来館者を迎えていました。
缶バッジは6種類で「50th」とともに、井戸尻お馴染みのキャラクターがデザインされています。すべて消しゴムハンコから原画を作ったそうでH学芸員の力作といいます。
平日の夜にイベントを設定した理由をK館長に尋ねると、4月30日が平日だったので集まりやすいようにやすいよう夜に設定したと直球の答えです。夜でも躊躇なくやってしまうのが井戸尻考古館的なところです。
そういえば、かつてコロナ渦の2020年(令和2年)でしたが、秋恒例の収穫祭は無観客で祭式のみ実施(動画配信)しましたが、夜の祭式でした。
トークイベント
トークイベント「その時、僕らは“高校生”!~地歴部員も掘った曽利遺跡~」はかつて諏訪清稜高校の地歴部員として、曽利遺跡の第5次の発掘調査(考古館建設地の発掘調査)に携わった高見俊樹氏と三上徹也氏にお話を伺います。高見氏、三上氏ともに信州の考古学会では著名な方です。
18時を過ぎた会場では、地元の方々のほか、久しぶりに顔を合わせる旧来の縄文ファン同士の姿などがあります。筆者も何人もの皆様に声をかけていただき、小林公明2代目館長にもお会いしました。
19時定刻の開始です。冒頭K館長から挨拶があります。そのあと、進行役のS学芸員が高見氏、三上氏からお話を伺うという形式で進みます。
高見氏、三上氏のほかにもう一名、本日はおられませんが、五味一郎氏が加わることで、苗字に「み」が付く事から、諏訪清稜高校地歴部の「さん・み」と呼ばれていたそうです。それぞれ卒業後は考古学の道を進まれました。現在はみな退職され、一般社団法人大昔調査会でともに活動し、諏訪市博物館内の「すわ大昔情報センター」の運営などをされています。
高校生が発掘に携わった経緯
以下、筆者による要旨のまとめです。
まず、井戸尻考古館が建設に伴う曽利遺跡の発掘に携わった経緯を伺っています。多くの方がご存じのように井戸尻考古館は曽利遺跡の上にあります。
井戸尻考古館建設に伴い曽利遺跡の調査は第3次~第5次調査が行われ、収蔵庫建設地、進入路の拡幅、考古館建設地の調査を行いました。
この中で、第5次調査が井戸尻考古館建設に伴う調査で範囲が広くおおがかりで、昭和48年3月11日~4月2日本調査、昭和48年4月3日~7月30日精密調査が行われ、地元の人に加え高校生も発掘に携わっています。
お二人が入学でした昭和47年は、10円はがきの料金意匠に曽利遺跡(第1次)の水煙渦巻文深鉢の採用が決定し、地域の話題になっていました。
地歴部に入部しますが、5月に部室を焼失しており(なんとタバコの不始末)集まる場所がありません。そこで境支所にあった旧井戸尻考古館へ毎週のように出入りするようになり、そこで初代館長の武藤雄六と出会います。茅野の尖石考古館もあったのですが、中央本線の信濃境駅に近く交通の便が良かったのです。
一年生の終わりの時期に、曽利遺跡の第5次発掘調査が始まると聞き地歴部も参加することになります。3月11~16日の一週間泊まり込みです。普段は4.5人しか顔を出さない地歴部員が15人も集まり、すぐ隣の地区の池袋区の公民館に合宿よろしく寝泊まりしました。とはいえ、来てみるととストーブなし、電気なし、米を薪で炊いて、おかずは缶詰め、寝袋で寝るだけという生活だったといいます。風呂もありません。
発掘は6月まで続いたのでその後は通いで手伝ったといいます。
地歴部の活動と果たし状?
地歴部の活動は高校生と思えないほど専門的でした。学園祭で発掘調査報告書のような部誌を作り展示しています。ガリ版刷りと謄写ファックス製版機を使用して高校生の部誌とは思えないほどの出来映えだったといいます。
また、ライバル校として岡谷南高校(おかなん)地歴部があったそうで、文化祭の招待状を校長名で送っていますが、まるで果たし状そのもので、そんなライバルの存在も腕を磨くきっかけだったようです。諏訪清陵高校、岡谷南高校どちらの高校からも著名な考古研究者を輩出しています。
高見の穴
地歴部員たちは、武藤雄六(初代館長)、小林公明(のちの2代目館長、諏訪清陵高OB)らから発掘の指導を受けました。ちなみに、武藤雄六を「フトボス」、小林公明を「ヤセボス」と呼んでいたとか。
フトボスこと武藤は要点を説明するだけでしたが、高校生の彼らに任せてくれたといいます。例えば竪穴住居ひとつを地歴部員に任せてもらえたといい、普通では考えられないことです。また、ヤセボスこと小林が良く面倒みてくれたといいます。
あるとき高見氏が埋め甕を発見します。武藤からやってみろと任させました。するとゴリとへんな音がして穴をあけてしまいました。取り出されたこの埋め甕についた穴はずっと「高見の穴」と武藤は愛着を込めて(?)呼んでいました。
発掘が人生に与えた影響
この発掘の経験は二人にどんな影響を与えたのでしょうか。
三上氏は、発掘が楽しかったのか、合宿が楽しかったのかでしたが、自分の場所を見つけた気がしたといいます。卒業後は大学へ進学し、考古の道を歩み続けてきたが、楽しく続けて行けた原点だったといいます。
高見氏は、縄文文化にふれる機会だったといい、当時は、新田次郎、藤森栄一などが提唱し自然と文化財保護の問題が提起されていた時期だったともいいます。
発掘が終了し、昭和49年に現在の井戸尻考古館が開館します。その後も井戸尻へ足しげく通ったといいます。もう職員というか、考古館の中の人間という気持ちで出入りしていたといいます。
質疑応答
お二人の話は一段落しました。司会から、会場に当時の曽利遺跡の発掘調査に参加された人はいますかとの問いかけ対して、年配の女性が発掘を手伝ったと少しだけお話をしてくださいました。実はこの方、考古館隣接地の地主の親族でした。
残りの時間は会場から質問を受け付けます。当時の発掘はどのような道具で発掘していたのかとの問いがあり、高見氏は、昔から使っている道具そのものはあまり変わってはおらず、ただ現在とは材質変わっているくらいだといいます。
次に二人の考古への情熱の原点はどこにあったのでしょうかとの問いがあり、三上氏は、家の庭が遺跡だったこと、小3で岡谷蚕糸博物館で4000年前の土器を見たことを挙げています。
高見氏は、中学の時に友人に誘われ土器のある場所に勝手に拾いに行ったのが始まりで、昔の人の使った道具だったと知ると、パッと自分の世界がカラーになったような感覚を覚え、その後は藤森栄一の著作を読みあさったといいます。また、高校時代に友人たちと出会いがあり、50年後現在も部活の延長のように大昔調査会で一緒に活動をしているといいます。
最後に、館長がお二人は喧嘩はしたことないのですかと問うと、二人とも喧嘩は一度もしたことはないといいました。しかし酒が入ったエピソードはいろいろと挙がるようで、誰が誰のファンだったと往年のアイドルの名前も挙がって笑いに包まれたのでした。
新井戸尻考古館への期待とアドバイス
井戸尻考古館は数年後に近隣地に新築移転します。新井戸尻考古館への期待とアドバイスを伺っています。
高見氏は、井戸尻には応援してくれる考古ファンやサポーターが多くてたいへんだけど、学芸員や職員は縛られずに好きにやればいいとといます。
三上氏は、新館を建築しても井戸尻の持つ空気は変わらないはず、学芸員の気持ちの持ちようであり、見てもらいたいという空気感を保ち続けてほしいといって締めくくりました。
おわりに
平日夜の開催にも関わらず集まった参加者は40人弱でした。宣伝は抑えめにしていたにも関わらず、定員いっぱいに人が詰めかけたのでした。地元の方、井戸尻ファンの根強さが表れています。
かつて、井戸尻考古館は親切ではなくとっつきにくい空気があると言われた時期もありました。縄文農耕論や図像学などは考古学界からは異端とも呼ばれながら迎合することなく、発掘と研究の成果を重ねていたからでしょうか。
一方で、来るものは拒まずの精神が根底にあり、研究者やファンが訪ねてきていたのです。そうした井戸尻の風土はすでに50年前から出来上がっていたのだと感じました。
そしていまは、来る者は拒まず精神は変わらず、リピーター、サポーターなど多くの来館者が訪ねて来る考古館になっています。さらに門戸を広げ新館建設へ向け進んでいくはずです。
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