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40歳、半生を振り返る - 大学院編(1) -

私の人生の中で大学院での研究生活が、最も充実し、最もどん底を味わった期間であった。

私は、新潟の田舎で生まれ、18歳まで新潟で育った。幼少期は父親の転勤もあり、福井や千葉に住んだこともあるが、物心ついた時には新潟に居た。

小学校、中学校と新潟の片田舎の学校に通い、成績は中の上ぐらい。成績は悪く無かった。勉強が好きで問題を解くことが楽しかった。特に勉強している意識もなく、成績がよかった記憶がある。

大学では物理を学ぶことにした。サイエンスに興味を持ったのは、父親が気象予報を行なっていたこともあり、自然に対する興味が日常的にあったことが起因しているのだと思う。衝撃的だったのは中学生の時報道された地下鉄サリン事件。テレビに出演した科学者を見て、かっこいいなぁと漠然とした憧れを持ち、学者になりたいなと思うようになった。高校へ進学し、化学への興味が膨らみつつもあったが、物理の教師のエキセントリックさに心を惹かれてしまい、その格好良さに物理専攻への進学を決めたのだった。

テレビによく出演していた大槻教授の影響から、早稲田大学物理学科を第一志望として受験した。結果は不合格。第二志望だった慶應義塾大学物理学科に進学した。慶應へ合格しただけでも私にとっては喜ばしいことだったが、慶應の物理学科には素粒子・宇宙物理の教授がおらず、少し躊躇した記憶がある。高校生の私が知っていた物理は、湯川秀樹であり、朝永振一郎であった。アインシュタインの相対性理論に憧れ、それが学べることにワクワクしていた。高校生の時、読めもしない一般相対性理論の専門書を新潟の紀伊国屋まで買いに行き、意味もわからずノートに数式を書いていた記憶がある。

私にとって、物理を学ぶということは、普通の人が理解できないような難しい数学を使って、誰も思いつかないようなことを証明してみせる、"賢くてかっこいい”ことだった。そういうことをできる人になりたいと思っていた。ただ"賢くてかっこいい”自分になりたかったし、そう思われたかっただけなのかもしれない。

大学での生活は楽しく、苦しいものだった。今まで理解できなかったことが徐々に紐解かれていく感覚。さらに分からないことが増えていく虚しさ。勉強すればするほど、好奇心は強まっていたし、それと同時に虚しさも増えていった。

大学院は東京大学へ進学した。学部時代に統計物理学の魅力に取り憑かれ、そこで一旗あげたいと考えていた。新しい分野を探索するために、化学、生物、経済学、色々と学んだ。大学院で目に見える成果をあげて、アカデミック職に就くんだと意気込んでいた。後から考えると焦りの方が強かったのではないかと思う。

私は幼少の頃から普通の家庭で育ち、特別な英才教育は受けていなかった。普通の公立の学校へ通い、普通の授業を受けて育った。色々な運もあり、東京大学に来た途端、格段にレベルの高い同僚たちと出会った。私には、彼らは全く異なる言語を話す別の生物としか感じられなかった。

彼らに追いつけないと自分は終わる。

寝る間を惜しんで勉強しても、彼らに追いつくことは無かった。そんな自分を受け入れられなかった。いつの間にか、どれだけ本を読んでも頭に入らなくなり、楽しかった勉強は苦痛へと変わった。話すこと、食べることが嫌になり、ついには寝ることさえもままならなくなった。こうして僕はうつ病になった。23歳の時だった。