京大・緊縛シンポの研究不正と学術的問題を告発します②剽窃について

本記事では、私が出口氏に送った批判内容のうち、わかりやすい問題である剽窃について説明します。本記事でいいたいことは以下の3点です。

Y氏・F氏報告は、マスターK著『緊縛の文化史』(すいれん舎、2013年)からの全面的参照(剽窃)で成り立っている。

②『緊縛の文化史』は学術書ではないため、内容に誤りを多く含む。そのためシンポで説明された歴史パートも同様に多くの誤りを含み、結果的に緊縛の歴史に関する偽史が世界に流布されてしまった。

③緊縛シンポでは、緊縛の起源を武士文化とする説が話されたが、これは西洋の東洋趣味としての緊縛消費が背景にあり、実証的にみて事実無根である。この説が流布されることは学術研究を阻害し、一般的にも緊縛文化への誤解を招き有害である。

1.剽窃とは研究不正である

そもそも剽窃とは何か、ということなんですが、剽窃で検索するとたくさんの解説記事がでてきますのでここでは簡単に、他人の書いたものを参考文献として明示せず参照・引用する行為と説明しておきます。参考文献として明示されていれば、他人の書いたものからどれだけ引用しようと参照しようと自由ですが、明示していなければアウトです。

参考文献を示し忘れただけだろう、単なるミスではないのか、と思われる方もいるかと思いますが、これは立派な研究不正で、これをやると研究費を返還させられたりその後数年間科研費に応募できなくなったりと、かなりのペナルティを課せられます。ですからふつう研究者は、参考文献の明示をうっかり忘れたりはしません。しかも今回は一般公開されたシンポジウムでの講演であり、学会発表、もしくはそれに準ずる報告(招待講演など)とみなされ、参考文献の明記は必要なはずです。

2.剽窃元:マスターK『緊縛の文化史』(すいれん舎、2013)とは

さて、当日のプログラムはこちらです(京都大学人社未来形発信ユニット・イベントページ内・「シンポジウム「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」を開催します」より。最終閲覧日2020年12月29日)。実名をイニシャルに置き換えた部分があります。

シンポプログラム

ちなみに、このうち、4.吉岡洋氏「現代アートとしての緊縛」は、当日「縄と蛇」にタイトル変更され、緊縛と無関係な内容となりました。

さて、剽窃ですが、これは第一報告、F氏・Y氏「緊縛入門ミニ講義:緊縛からKINBAKUへ」で行われました。Y氏の所属は「東京大学PD」となっていますが、確認したところ、正しくは「日本学術振興会・特別研究員PD」で、受け入れ先が東京大学ということでした。出身は京都大学です。

さて、この報告で説明された緊縛の歴史パートは、マスターK著『緊縛の文化史』(すいれん舎、2013年、原著2008年)にほぼ全面的に依拠しておりましたが、参考文献として本書は明示されませんでした。口頭で本書に言及することもありませんでした。ちなみに本書はアメリカ在住の、おそらくアメリカ人の緊縛師によって書かれており、2008年に英語で出版されたものの翻訳です。こちら↓

なお、剽窃を検討するにあたり、本書のほかに下記の文献を参照しています。

名和弓雄『拷問刑罰史』(雄山閣出版、1963年)/ 藤田西湖『図解 捕縄術』名著刊行会、1986年(※本書は3回刊行されていますが、河原が参照したのは1986年版です。3つとも総頁数が同じなのでそれほどの違いはないと考えました。) / 板津安彦『与力・同心・十手捕縄』(新人物往来社、1992年)/ 水越ひろ『写真で覚える捕縄術』(愛隆堂、2005年)

このほか、緊縛・SM関係の文献もいくつか確認しましたが、具体的な書名・論文名、雑誌記事を挙げることは控えたいと思います(以下、この件に関する記事すべてで同様)。これは、私の記事を読んだ出口氏らが、私の挙げた参考文献をたどって今から理論武装し、本件に関する言い逃れに使う可能性があると考えているからです。当日及びその後の対応から、それくらい研究倫理の欠如した相手だと私は結論付けています。

さて、『緊縛の文化史』は、1950~60年代の性文化雑誌を直接参照して書かれており、とりわけ「第2章、緊縛の歴史における26人の重要人物たち」では、これまで十分に光をあてられることのなかったマイナーな緊縛関係者を取り上げていることは本書の成果と言えます。

しかし、残念なことに、著者は1950~60年代の雑誌記事を網羅的に参照しているとは言えず(おそらく緊縛に関する記事だけで、それも全部ではない)、さらに、日本語文献を参照したのは緊縛・SMに関係するもののみで(それだけでも大変な労力ですが)、戦国時代、江戸時代、歌舞伎や日本の刑罰に関する記述は、英語文献をもとに書かれています。日本に関する研究は、国内と外でかなり分離しており、実証レベルでいえば、まだまだ国内の研究の方が高水準であると言わざるを得ません。そのため、本書の日本社会や文化一般に関する理解にかなりの問題が発生することとなってしまいました。

この問題が修正されることなく、例えば江戸時代が始まった直後から日本が平和になった、そしてすぐに鎖国政策が始まった、といった誤った歴史的理解が、そっくりそのままY氏・F氏報告に盛り込まれてしまっています。

2. 「緊縛入門ミニ講義」Y氏担当部分における剽窃:「緊縛の起源・発展」~「緊縛の文化化」

本報告は、研究者であるY氏と、「緊縛アーチスト」であるF氏の共同報告で、前半をY氏、後半をF氏が担当しました。F氏も明らかに『緊縛の文化史』を参照していますが、氏は研究者ではありませんので、彼女を研究不正と責めることはもちろん致しません。F氏パートで主張された説の誤りについては次の記事で訂正することとし、本記事ではY氏パートのみを取り上げます。

Y氏は、緊縛の起源として提示した江戸時代の捕縄術の特徴として、捕縄には2つのカテゴリーがあり、それは早縄・本縄であることを指摘されました。そして、本縄には4つの特徴があり、とりわけ3・4の特徴が緊縛ととてもよく似ている、と説明されました。その4つの特徴とは以下です。

(1)縄ぬけできない
(2)縄の掛け方を見破られない
(3)長時間縛っても神経血管を痛めない
(4)見た目が美しい

シンポ動画のスクリーンショットも示しておきます。

画像7

この4つの特徴はそのまま『緊縛の文化史』47ページに掲載されています。写真を示しておきます。


画像5

ちなみに、これを読むとわかりますが、この4つの特徴/定法はマスターK氏の発案ではなく、板津安彦『与力・同心・十手捕縄』(新人物往来社、1992年)からの引用です(242ページ)。そのため、板津本からの剽窃という可能性もありますが、板津本にはないが、マスターK本にはある様々な表現、説明がY氏・F氏報告内容と一致するので、剽窃元は『緊縛の文化史』と考えています。

『緊縛の文化史』とのその他の文言の一致を示しておきます。

画像7

Y氏は、緊縛の起源が15~16世紀であること、戦国時代に、敵を捕らえて拘束するための捕縄術が発達したこと、その技術を備えた「下級武士」は、江戸時代に入り平和が訪れたことで、「戦い」という仕事を失い、かわりに「犯罪の取り締まりを担当する行政職」についたと説明しました。

この説明は、『緊縛の文化史』43ページ~、「緊縛の歴史と起源(1)捕縄術―捕らえ縛るための武芸」に一致する文言があります。

戦争がなくなってもはや用済みとなった下級の侍(同心)は、警察官など日常的な犯罪取締を担当する行政職に就き、大都市でも辺境の土地でもさまざまな問題の解決に当たった。(46ページ)

「下級の侍(同心)」と「下級武士」、「犯罪取締を担当する行政職」と「犯罪の取り締まりを担当する行政職」という表現がほぼ一致しています。これくらいの文字の異同は、通常は剽窃認定を妨げません。

その他、本パートの冒頭でなされた戦国時代の説明も本書の記述といくつか文言が一致します。例えば、F氏は、以下のように戦国時代を、「さまざまな勢力が日本を支配しようと競い合っていた」と説明しました。

画像7

『緊縛の文化史』43ページに以下のようにあります。

さまざまな勢力が日本を支配しようとお互いに競り合う荒々しい時代であった(43ページ)

もう具体的に検証することはいたしませんが、F氏はさらに続けて、犯罪者の身分や罪状によって縛り方に違いがあったことを紹介していますが、それももちろん本書に書いてあります

そして当日図版として提示された捕縄の絵図も本書49ページに掲載されています。本図版の出典はさすがに示されていましたが、書籍からではなくとあるホームページからの引用でした。『緊縛の文化史』掲載の絵図はあまり鮮明ではないので、きれいな画像をネットから拾ったのかなと思いました。

訂正をかねて:剽窃ではないが依拠している箇所その③同上パート

Y氏は続いて、江戸時代においては、「犯罪を犯すと、縄で縛られて公衆の面前を歩かされた」とし、「いろいろな人に『自分は犯罪を犯した』とバレて恥ずかしい思いをした」と説明し、「犯罪を媒介として、縛りと恥が結びついた」と説明しました。

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おそらくこれは、性的な緊縛につきものとされる羞恥心との結びつきが既に江戸時代から芽生えていた、という主張なのだと推測されます。

「縄をかけられて公衆の面前を歩かされる」というのが、捕縛現場から取り調べの場所へ単に連行されることを指しているのか、市中引き回しのことを指しているのかはよくわかりません。

しかしどちらにしろ、これらの行為で「恥」が発生すると仮定して、そこで恥だとされるのは、本人の名誉等の、体面に関する類の恥であると推測されます。これを性的な羞恥心と同列に扱っていいのかどうか、はなはだ疑問です。

名和弓雄『拷問刑罰史』には、縛られて引き回されても恥を感じているとは思えないタイプの囚人の話が登場します。名和氏によれば、市中引き回しは、火あぶりと磔刑の属刑なので、その後囚人は処刑されます。これら死刑囚の最期の望みをなるべくかなえてやるという習慣が一時期あり、いよいよ浮世の見納めという引き回しの際になると、同行する同心に、そこの酒屋の酒を飲ませろ、蕎麦を食わせろなどと、要求をしまくる死刑囚がけっこういたといいます。

さて、Y氏のこの主張は『緊縛の文化史』50ページの、以下の説明を曲解したものと考えられます。

日本では縄付きになることが個人に降りかかる運命のなかでも最も恥ずべきものの1つ[縄目の恥]であり、完全な恥辱、社会からの排斥を意味したという事実にある。(中略)縛られること、無法者、除け者となることで覚える恥辱に、日本人は何世紀ものあいだ恐れを抱く一方で魅了されてきたのであり、これこそが日本人のSMプレイの重要な心理的側面なのである。つい先日も、日本のたいへん有名な緊縛モデルが、自分が縛られているところを年老いた両親に見られるぐらいなら、セックスをしているところを見られた方がましだと、私に手紙で告白した。(50ページ)

マスターK氏は、江戸時代には、「縄付き」になることは完全な恥辱、社会からの排斥であり、これに日本人は何世紀ものあいだ怖れを抱きつつ、魅了されてきた、とし、これを現代のSMプレイにおける日本人の感性と接続しています。この見解には特に根拠は示されていません。

Y氏の説明とマスターK氏の説明はかなり違うので、剽窃とは言えません。ただ、江戸時代の犯罪者が感じた恥ずかしさが、現代の緊縛につながっている、という理解は、事実誤認に基づく特殊な説明であり、マスターK氏の著作以外の日本語文献にこのような珍説は見られません。その他の箇所から、Y氏らが『緊縛の文化史』を参照していることは明らかなので、Y氏のこの主張が上記をもとにしていると考えることはあながち不当とはいえないと考えています。

まだまだありますが、この辺でとめておきます。

3.緊縛文化を武士文化と結びつけることの問題について

なぜ私がこれほどまでにY氏・F氏報告にこだわるのか、という点について述べておきたいと思います。
それは、緊縛文化の起源を武士文化と結びつける理解は、海外において緊縛が東洋趣味として受容・消費されていることと関係していると私は考えているからです。

西洋に多くみられるが、日本では少ない緊縛の受容の仕方として、東洋の神秘的な肉体へのアプローチとして、ヨガや禅文化などと結びつけるスピリチュアルなあり方があります。
西洋で緊縛に魅了される人々は、緊縛にアジアへのあこがれを重ねていることが少なくなく、緊縛を日本的な伝統のなかに位置づけたいというニーズが見られます。

緊縛の海外展開において重要な役割を果たした外国人縄師が、長髪に和服というサムライを想起させるスタイルでワークショップ等を開催していることの影響も見過ごせません。緊縛は、剣道や柔道など、「道」のつく武術と同様、教える者と教えられる者が師範と弟子の関係性を形成していたり、精神的な修練に注意が向けられたり、緊縛を習う場所が道場と名付けられていたりすることがあり、このようなサムライや武士道を想起させるあり方が、緊縛の起源を武士文化に結びつける背景となっているのは明らかです。

このように、海外における緊縛の東洋趣味的消費、そして縄師が形成してきたイメージを踏まえて、緊縛の起源=捕縄説は慎重に再検討される必要があります。

なお、古流捕縄術の復元に取り組まれた水越ひろ氏は、SMにおける緊縛と捕縄術の関係をかなりきっぱりと否定していることを申し添えておきます。

画像7

(『写真で覚える捕縄術』(愛隆堂、2005年)20ー21ページより)。
ちなみにこの事実はシンポ時に疑問として提出しましたが(Slidoというサービスを利用)、登壇者からは無視されました。

さらに補足説明をすれば、日本において、限られた人々による、サドマゾヒスティックな性の遊戯、および緊縛が資料に現れるのは、ほぼ第二次世界大戦後です。たしかに江戸時代の浮世絵の中には、縛られた女性や拷問される女性、無残に殺された女性を描いたものが大量にありますが、これらの消費者は一般大衆であり、一部の限られた人々に向けられていたものではありません。現代でいえば、ドラマや映画の中のアクションシーン、性描写・暴力描写のような位置づけです。
緊縛文化が戦後に芽生える、ということを踏まえれば、緊縛の起源を考える上でまず検討されるべきは捕縄術ではなく、戦争の影響ではないでしょうか。

実際に、戦後の性文化雑誌には、緊縛に興味を持ったきっかけとして、中国人女性が縛られ拷問されているのをみた経験を語るものも掲載されています。軍隊経験も、縄の取り扱いに習熟する場として見過ごせません。

このように、縄による人間の拘束がより身近であった直近の時代を検討せずして、武士に起源を求めることは、明らかに飛躍があります。
緊縛を武士文化と結びつける見解が国内外に広まることは、緊縛をことさらに美化し、戦後という時代性を見えづらくするものであり、今後緊縛が学問として研究される上で大きな妨げとなります。

次の記事では、第1報告のF氏パートについて取り上げます。



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