【あ行の部】嘘と真実
有馬翔の母親は、翔が四歳の頃に亡くなった。自殺だった。
なぜ自ら命を絶ったのかは知らない。遺書は残されていたらしいけれど、翔がそれを読むことはなかった。父親が幼い息子を案じて隠したのだ。
でも、翔が母親の遺書を読まなかったのは、『父親』だけが原因ではない。
『父親』が原因ならば、高校……いや、中学生の頃には解決していたのだ。翔は同年代に比べ、心身ともに大人びた子供だった。聡明で理解力もあった。故に、『父親』の愛情が、翔の『母親』である女に向けられていないのは何となく悟っていた。
いや、愛情がゼロだったわけではなかっただろう。けれど、そのベクトルは、全く違う方向に向けられていた。その事実を、翔は割と早くから肌で感じ取っていた。
母親が残した遺書が、何処に保管されているか。翔は知っていた。読もうと思えば簡単に読むことが出来た。
でも、一度だって取り出して読んだことはない。
何故か。
答えは単純──興味がなかったのだ。
五歳の誕生日の次の日に見た少女──頭のない『電脳少女』・アスカ。
母親の死に対する感情は、アスカと出会った瞬間に抱いた恋心に塗り潰された。
父親が所有し研究する『電脳少女』・アスカに初恋を奪われた翔は、「お父さんが傍にいなくて淋しい」だの何だのと適当な理由をつけてアスカが保管されている研究所に着いていくようになった。頭が良く、覚えも良かった少年は、次第に彼女の話し相手から世話係に昇格し、研究の手伝いをするようになる。
化学や生物学、遺伝子学に没頭し、父親と同じ高校と大学に進む──そのレールは、翔にとって自然のことだった。同じレールに乗って進まなければ、アスカと一緒にいられないからだ。
優秀な頭脳を持ち、歴代最高得点で大学へ進学した翔を、父親は手を叩いて喜んだ。が、その喜びが上辺だけであることに、翔はしっかりと気付いていた。
「父は、アスカが横取りされるのを恐れている」
確証のある見解だった。
父は翔が幼い頃こそ積極的に彼女と会話をさせようとしていた。が、翔が成長し、思春期を迎え、大人の男へ一歩一歩確実に近付くにつれて“アスカと二人きり”になることに嫌悪を示すようになったのだ。その割に、自身はアスカと二人きりになりたがるようになった。まるで「『電脳少女』は自分のもの」と誇示するような触り方をするようになった。
翔は、父親の態度に嫌悪した。
「アスカ、最近の調子はどう?」
父親と彼女が丸一日、二人きりになった翌日、こんな質問を投げかけてみた。
技術の進歩により液晶画面に表示される“顔”を手に入れたアスカは、不思議そうな表情を浮かべながら「どうって、どういうこと?」と質問で返してきた。
「そのままの意味だよ、元気?」薄い琥珀の、バーチャルな瞳を見つめながら問う。「昨日の父さんは、どんな様子だった?」
「先生のことは、息子である翔くんの方がよく知ってるでしょう」
「そんなことないよ。父さんは結構、秘密主義なところがあるから」
嘘じゃなかった。父親は、翔の母親の自殺の動機も、遺書の存在も教えてくれなかった。アスカに対する執着や邪な感情も、隠し通している気でいる。
「昨日の先生は……そうね、すごく穏やかでした。少し前は、やや不安定というか、苛立っているというか、落ち着きがない感じだったけど。でも、昨日は私の話をよく聞いてくれました」
「そう──そうなんだ」
アスカの言葉を聞いて、翔は一つ溜め息を吐いた。
この時が来たのだと、内心で酷く落胆した。
一週間後、父親が死んだ。
出勤途中の心不全だった。当時、父親は車を運転しており、身体が前方に倒れて思いっきりアクセルを踏む事態になった。けれど幸いなことに、事故現場は人通りの少ない道だった。更にいうと、急発進した先にあったのは一本の電柱のみ。
父親を除いて死人も怪我人も居らず、被害は車と電柱だけという、完全なる単独事故だった。
唯一の肉親と呼べる父親の死に、翔は勿論、肩を落とした。
アスカの前にパイプ椅子を置いて「父さんは優しい人だったんだ」と、ぽつりと零す。
「早くに母さんが死んじゃって、男手ひとつで僕を育ててくれたんだ。弱音とか、そういうの一言も言わなかったけれど、正直大変だったと思うよ。仕事も、“普通の医者”じゃなかったしね」
「翔はお父さんの仕事、“普通の医者”だと思ってたんでしたっけ?」
液晶画面に映った『電脳少女』の可愛らしい顔が、何処か他人を見下したような表情で訊いてくる。
「そうだよ。怪我や病気を治す、お医者さんだと思ってたんだ」
「それなのに、私を──頭のない女を生かして弄くってて、がっかりした?」
「まさか!」翔は叫んだ。「がっかりなんてしなかった。寧ろ反対だ。僕は、アスカの存在に感動したんだよ。その証拠に、僕は上に掛け合ったんだ。『父の研究を引き継がせてくれ』って。アスカ……きみの未来を、僕が請け負うって」
熱の籠もった翔の声が、アスカを生かす機械音と混じり合って研究室内に響いた。漏れ出る吐息にも興奮に似た熱が含まれていることに、翔自身も気付いている。
反対に、アスカの声音は酷く冷え切っていた。機械音声だから、という理由では片付けられない、頭部を失ってもなお消えない美麗と共に保存された感情からくる冷たさだった。
「あんたってほんと、きしょいしイカレてるよねぇ」
その言葉には嘲笑が混じっていた。翔の熱い吐息が止まる。
「なに、い──」
「私、知ってるのよ。あんたが何を考えているか、何を狙ってるか──何を、やったのか」
アスカの言葉のひとつひとつが、翔の心を貫いていく。聴きたくない。耳を両手で覆って拒絶したい! そう思っても実行には移せなかった。
翔の行動理念に、アスカを拒絶するコマンドは存在しないのだ。神の言葉を聴くように、翔はアスカの言葉に耳を傾ける。
「あなた、先生を殺したんでしょう?」
ひゅっと、息を呑んだ。
残酷な言葉は止まない。
「私を手に入れたいから、永遠に自分だけのものにしたかったから、実の父親を殺した」
「そ、そんなこと──」
「ないって、完全に否定できる? 言っておくけど、私には証拠があるの。私が何て呼ばれているか、あなたは当然知ってるわよね。『電脳少女』……つまり、コンピューターに繋がれている。インターネットなんて序の口。やろうと思えばあらゆる端末、機密情報にもアクセス可能。あなたが使うスマホにも潜り込めるし、自宅の近くの防犯カメラ映像だって見放題なのよ」
「…………」
「……何を言われているか分からないかしら。一個ずつ並べた方が良い? 父親が心不全を起こすよう、何を盛り続けたか。保険として、車にどんな仕掛けをしたか。研究を引き継げるよう、どれだけの大金を積み、何人の女の子を犠牲に──」
「やめろ!!!」
けたたましい金属音が、研究室内に鋭く響いた。翔が立った衝撃で倒れたパイプ椅子が奏でた騒音だった。
耳障りな酷い喘鳴が聞こえる。見開いた眼球が乾いて痛かった。脳内が沸騰するように煮えくり、けれど腹の底と背筋は凍えるように冷たかった。冷たさが逆に熱を帯びているようでもあった。
「口外されたくないでしょう?」
なにを、と訊くまでもなかった。翔はハハッと乾いた嗤い声を上げる。
「言ってみたところで、警察が信じるはずがない。きみは『電脳少女』なんだ。存在してないも同然。そもそも、殺人である証拠がないんだ。妄言、或いはイタズラで処理されておしまいさ」
「警察に言えば、そうね。でも、週刊誌なら? SNSなら、どうかしら」
翔の顔がサッと青褪める。アスカが何を言おうとしているか、瞬時に分かった──社会的に殺そうとしているのだ。
「止めて欲しいなら、ひとつお願いを叶えてちょうだい」
アスカの要求に、翔は肯く他なかった。
元々、愛する彼女の願いなら何でも叶えてやるつもりだった。実際、無理難題でも何とか叶えてきた。アスカだって、それは分かっている筈だ。
なのに、脅迫してまで叶えたい、アスカの願いは何なのか。
「難しいことはない、簡単なお願いよ。
──装置の電源を落として、私を殺して欲しいの」
(続)
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