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【短篇】雨女、恋心を知る

 陽光が一筋も差し込みそうに無い、どこまでも広がる黒い雲。しとしとと真っ直ぐに落ちる雨粒。眼下に広がる交差点には傘の花が咲き乱れ、ある人は足早に、ある人達はゆったりと流れていく。
 手元のスマートフォンに視線を落とす。LINEの新着メッセージを知らせる通知が一件、表示されていた。
 画面に指先を滑らせて、メッセージを表示させる。そこには両手を合わせて涙を流す珍妙なパンダのスタンプと共に、一言。

『おくれてごめん、もうすぐつく』

 漢字に変換する間も惜しいらしい。それとも、変換する余裕が無いのだろうか。どちらにしても、相当急いで此方に向かっていることは伝わってくる。
 当然だ。こいつは予定の時刻を四十分も遅れているのだ。
 こんなにも女子を待たせるとは、なんて非常識な男なのだろう。これは昼食だけでは許されない。ケーキも奢って貰わなくっちゃ。
 生クリームがたっぷり盛られたフラペチーノに挿したストローを銜えながら、再び指先を滑らせる。送信ボタンをタップして、窓ガラス越しに流れる雲を目で追いかける。

「早く来なさいよ、ばか」

 雨は未だ、止みそうにない。
 露子は小さく溜め息を零す。

 * * *

 卯木露子(うき つゆこ)は雨が嫌いだ。
 下ろしたての洋服は濡れるし、お気に入りの靴は汚れるし、鞄も吹き付ける雨粒でベシャベシャ。折角セットした髪型も崩れて、うねりまで発生する。気圧が下がれば偏頭痛に悩まされ、洗濯物も碌に乾かない。最悪だ。
 傘を差すのは良いけれど、閉じた傘の表面に水滴が付いているのが嫌。濡れた傘を公共交通機関の中に持ち込むのも嫌。その傘が自分の洋服に触れて余計にべちゃっとなった瞬間には、傘の持ち主を叩きたくなる。他人を濡らさないように気を遣いなさいよね! と叱りたい。
 梅雨の時期によくある、降ったり止んだりの不安定な天気が嫌いだ。
 まず、そもそも、己の名前が宜しくない。漢字は異なるが「卯木」は「雨季」「雨期」と同じ発音であるし、「露子」は何だか雨っぽい。名付けてくれた両親のことは大好きだけれど、このことに関しては恨んでいる。なぜ選りに選って雨っぽい名前にしたのか。「晴子」とか「ひなた」とか、もっと晴れっぽくて可愛い名前が幾らでもあるのに。

 そして何よりも腹立たしいのは、自分が【雨女】な点だ。

『名は体を現す』とは、正にこのことか。
 露子は【雨女】である。
 生まれた日も、毎年の誕生日も、入学式も卒業式も、遠足の日も、臨海学校や修学旅行、文化祭に体育祭、音楽祭、受験当日、合格発表当日、成人式、家族での旅行に、初めて出来た恋人との初めてのデート──長い人生で体験する大凡のイベントに於いて、天には黒雲が垂れ込め、地面には沢山の水が降り注いだ。その確率は最早、天文学的だった。霧雨ならば僥倖。酷い時には云十年、云百年に一度の大きさの台風が直撃したり、大雪が降ったりした。
 あまりの雨女っぷりに、担任の教師からは「行事が嫌いで雨乞いでもしてるのか?」と言われ、友人からは「呪われてる」「お祓いしてもらった方が良い」と神社仏閣を紹介された。
 幸いなのは、両親を含め、誰一人として露子を気味悪がったり、排除したりしなかったことだ。天候には恵まれないが、人には恵まれているらしい。


 そんな露子の前に“彼”が現れたのは、文字通り『青天の霹靂』だった。

 日車遥(ひぐるま はるか)は、同じ大学に通う、同い歳の後輩だ。
 実のところ、露子は遥の素性をよく知らない。学年も違うし、学部も違う。所属するサークルが同じな訳でもない。出身校も当然違うし、通学に使っている電車も違う。
 なのに何故、露子と遥は出逢ったのか。それは露子が【雨女】であるが故の必然と言える。
 露子の“雨女伝説”を聞きつけた遥の友人と、遥の“晴れ男伝説”を聞きつけた露子の友人が「ふたりが一緒になったらどうなるか!?」という好奇心に従って、面白半分で引き合わせたのである。どうもこうもない。露子は呆れた。自分は確かに【雨女】である。が、四六時中、雨に降られているわけではない。晴れの日もきちんとある。年がら年中降られたら、それこそ呪いだ。
 露子の主張に、友人は「まあまあ、そうだけどさ。ちょっと会ってみてよ! ね!」と笑った。そして露子の腕を掴むと、半ば強引に全国チェーンの居酒屋へ引っ張り込んだ。
 通された席には、同じく友人らしき男性に腕を捕まれた男性──日車遥が居た。「どうも」と下げられた頭は暗めの茶色に染められ、短く整えられている。服装も落ち着いた色合いで、カッターシャツにチノパン、ジャケットというシンプルに纏められていた。
 見た目の印象は悪くない。鼻筋も通っており、涼しげな目許も露子の好みであった。けれど、名前が宜しくない。「日車」は「向日葵」の別称であり、からっと晴れた夏空を連想させる。「遥」も何だか晴れ渡った青空っぽい。彼の名前を誰が名付けたのかは知らないが、なぜ選りに選って晴れっぽい名前にしたのか。
 しかも、名を体で現した【晴れ男】──露子とは真逆で、イベント事で雨に降られた経験が無いと言う。高校を卒業後一年間、敢えて留年してタイを旅した時でさえ、まともに降られたのは梅雨時だけだと言うのだから腹立たしかった。たとえ理不尽だと理解していてもイラッとした。

 にも関わらず、露子と遥は良好な関係を築いている。
 遥に対する苛立ちの炎は、彼の内面を知る過程で完全に鎮火した。
 日車遥は涼やかな雰囲気に反して、随分とぽやんとした性格の持ち主だった。ぽやんを通り越してマイペースが過ぎた。居酒屋の席でも率先して話すことは無く。話を振られて初めて「そうだなあ」と、ゆったりした口調で受け答えをする。「遥」の名前が女の子っぽいのがコンプレックスだと零した時には、へにゃんと力の抜けた笑みを浮かべた。その笑みが、露子の心に深く刻み込まれた。同時に、左胸の鼓動が若干速まる。
 日車遥は、日溜まりの様に暖かく、穏やかな人間だった。
 気付いたら露子は、遥と連絡先を交換していた。「今度、遊びに行きましょう」なんて約束まで交わしていた。初めて二人きりで会った日の午前中は、雨女の力を存分に発揮した土砂降りの雨模様だったのに、午後には嘘みたいに晴れ渡って青色が空を独占した。待ち合わせ場所にて合流した途端、雨が止んだ時もあった。

 気付けば、卯木露子は日車遥と一緒に居る時だけは、雨が好きになっていた。

 * * *

 先程まで陽光が一筋も差し込みそうに無かった空に、僅かな雲の切れ間が生まれた。
 そこから蜘蛛の糸を思わせる白くて細い光が垂れ、やがて天国への階段が伸びてゆき、地上と天上が繋がる。

 傘の花の間から上空を見上げる人々の間を縫いながら、露子が居る方向へ駆けてくる男が居た。暗い茶髪にシンプルな装い。片手に握られているのはスマートフォンで、傘の姿は無い。折りたたみ傘さえ持って無いのだろう。そんな【晴れ男】を祝福するかの如く、太陽の暖かな光が降り注いでキラキラと輝いている。
 露子は、晴れを連れてくる遥の姿が好きだった。どんなに待ち惚けを食らったって全然構わない。無論、食事やデザートの要求はするけれど。でも、雨によって浄化された空気に、新鮮な光を齎す刹那的な光景を、露子は「奇跡」だと本気で考えている。
 雨女の自分には到底創り出せない。刹那的で神秘的な一瞬。

「卯木さんごめん! 待たせた!」

 露子が居る喫茶店に駆け込んだ遥が、切れた息を整える間も惜しんで言った。その額には小さな粒が煌めいている。
 ──ああ、好きだなあ。
 思いながら、露子は如何にも「不機嫌です!」という表情を作って「遅い!」と唇を尖らせた。

(了)

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