ペットショップ・ブルース
動物が好きだ。
たぶん、人間よりも。
その気になれば、ペットショップで半日過ごすこともできそうなくらいに。
今では“ペットは店で買うもの”だが、自分が小さかった頃、ペットは“拾ってくるもの”だった。
思えば、昔(90年代)の地元近辺には、今より猫や犬なんかのノラがうろついていることが多かったように思う。
学校帰りに犬や猫を見つけては追いかけ、そのまま家に連れていき、母親と“養育権”の獲得のための交渉をしたものだった。
田舎に行けば行くほど、というか、年をとっていればとっているほど、動物を愛玩的ではなく、機能的な“役割”として見る人が多いように感じる。
猫はねずみを取るし、犬は番犬になる。
役に立たなければ保健所送り、なんてこともあっただろう。
彼らは家族の寵愛を一身に受け、食と住の心配がなくなる反面、自由を拘束され、飼い主と一蓮托生の身になる。
例えば猫なんかはあまり身柄を拘束されず、自由気ままに移動することができるが、犬はそうはいかない。
私の実家でも当時“犬は番犬で、外で飼うもの”という、動物を機能的役割として見る家庭が多かったため、家の外で飼われることがまだ多かった。
子どもは残酷なもので、始めはかわいがり、散歩にも連れて行くが、飼育に手間がかかると、段々興味が薄れ、最終的には世話をしなくなったりする。
散歩にも行かされず、相手にもされず、彼らは鎖に繋がれたまま、毎夜悲しい星空を見上げることになる。
日に一回ほど、思い出したかのように、夕食の残飯なようなものが汚くコケの生えた器に投入され、かろうじて喉を潤すものは器にたまった雨水だったりする。
5年、10年、と代わり映えのしない景色とともに虚しい年月が経ち、彼らはまるでこの世に生を受けてしまったことを恨むように、鎖に繋がれたまま小屋の中に入ってジッとするようになる。
そんな犬たちがこの世界に何匹いるだろうか、とイマジネーションを膨らませると、胸の奥がつかえる。
鎖を外し、「さぁ、逃げろ!」と言ってやりたいくらいだが、逃げたところで保健所に駆除されたり、悲しいかな長年過ごした場所からは離れられず、また同じ場所へ戻ってきたりするんだろうな。
有史以来、人間が動物に対して行った残酷なエピソードはものは数知れず。
井上ひさし(ひょっこりひょうたん島の作者)が子どもの頃、猫にガソリンをかけて火をつけたとか、
中島らものエッセイに、犬に接着剤を大量に飲ませて殺し“標本を作った”とか言って喜んでいる友達が出てきたり。
物言わぬ彼らは、いつの世も生を弄ばれるのだなぁ。
〈今日の覚言〉
人間が殺された、というニュースを見るよりも、動物が殺された、というニュースを見るほうが嫌だ。
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