あなたと食べるご飯は世界で一番美味しい
私は、人前でご飯を食べるのが大の苦手だった。
誰かと一緒にご飯を食べると、どうしても味がしない。とっても美味しい物を食べているはずなのに「食べた感じ」がしない。お腹いっぱいになったのに、なぜか心は満たされない。
「今度ご飯に行こうよ!」と誘われると、内心「どうしよう」と冷や汗をかいてしまう。誘ってくれること自体はとても嬉しいし、その気持ちに応えたいと思う。でも、食事の光景を想像すると、とてつもない不安に襲われる。
私が一番落ち着くのは、誰にも見られない場所で、たった一人でご飯を食べている時。不思議と味がするし、ぱくぱくと口に運べる。心が満たされていくのを感じられる。
「誰かと一緒に食べると美味しい」なんて言われるけれど、その気持ちを全然理解することができなかった。
大人になると、結構困る場面が増えた。学生時代の「遊ぼう!」は、社会人になると「ご飯食べに行こう!」に変わった。会社では、自席じゃなく休憩室で食事を取ることになっていたから、誰かと顔を合わせるのは避けられなかった。
これにどう名前を付けるのが正しいのか、私にはよく分からなかった。
「摂食障害」とか「会食恐怖症」とか、思いつく名前はいくつかある。どれも正しくないのかもしれないし、どれも当てはまるのかもしれない。
確かに、不安の中には「何を食べることになるか分からない」「外食はカロリー計算できない」「太ってしまうかもしれない」という感情もあった。いつからか、食に対して厳しい「マイルール」があった。
急に食事量を減らして生理が1年止まったこともあったし、逆にリミッターが外れて甘い物をひたすら詰めた時期もあった。
自分の管理が及ばない食事をすると、今まで「マイルール」を守ることで保ってきた、わずかな「自尊心」が崩れて行ってしまう気がした。
でも例えば、自分で食べ物を用意したとしても、誰かと会話をしながらでは、やっぱり落ち着かなかった。考えうるその「障害」は、一つの原因ではあっても、全ての原因ではないみたいだった。
誰かと笑いながら、食べたい。
「普通」に、食事がしたいだけなのに。
誰もが当たり前にできるはずの「普通」が、私にはすごく難しい。それが、とても悲しくて、虚しい。食事の場に座る度、そして家に帰ってからも、いつも私は泣きそうになるのを堪えていた。
そんな私だったけれど、唯一、一緒に安心してご飯を食べられる人がいた。
それは、高校からずっと仲が続いている友達。なかなか他人に心を開くことが出来ない私が、自信を持って「親友」と呼び合える、数少ない人。
彼女も、日常生活の中で「生きづらさ」を抱えている側の人間だった。毎日必死にフルタイムで働いていたけど、お薬やお酒に頼ってしまうことも多いみたいだった。
私も彼女もギリギリの生き方をしていて、どうにもならない現状は何となくお互い分かっているけれど、そのことを口に出す訳ではない。それが、何より心地良かった。
コロナ禍になる前は、私達は決まって「色々な食べ物が選べるお店」に行っていた。
お寿司屋さん、とか、韓国料理屋さん、とかは行かなかった。お互い「相手はあれを食べたかったかな」と、心の中でずっとモヤモヤしてしまう性格だからだ。それぞれが好きな物を頼み「ちょっとちょうだい」と、一口ぱくりとつまむ。
このご時世になってからは、お互いに弁当を持ち寄って、公園でピクニックをするようになった。もしかしたら「食べる物を強制されない」ということが、私にとって心地よい理由の一つなのかもしれなかった。
そして、彼女は必ず「美味しいね」と言ってくれる。絶対に「これ、あんまり美味しくないね」と口に出さない。食べている時も、同年代は結婚や出産やキャリアの話が主だというのに、「この前買ったお菓子が美味しかった」とか、20代とは思えない会話を交わす。
せっかく一緒に過ごしているのだから、楽しいことを話したい。
それが、彼女とは自然に出来た。そういう存在だった。
そんな彼女と、ご飯を食べている時間は本当に幸せだった。
他の人と食べている時は不安で仕方が無いのに、彼女と食べている時はそんなことを思わない。
ちっぽけな「自尊心」なんて、どうでもいい。
それより、あなたと「美味しいね」と笑い合いたい。
もしかしたら、私をずっと苦しめてきたその「障害」も、誰かからの「無償の愛」が、一番の特効薬だったりするのかもしれない。
そんな大切なあなたに、出会えて良かった。
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