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随想好日 第八話「今朝のお勉強」
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これはまた朝から良い原稿を読ませて頂けましたねぇ♬ まだの皆さんは是非に冷めぬうちにお召し上がりくださいますよう。
もともと「痴(し-る、し-れる)、ち」は仏教用語だったようです。普賢菩薩に捧げるお経、普賢行願品(ふげんぎょうがんぽん)の中の懺悔文に記された「三毒」の一つ。
※拙著「夢殿」を書くにあたって救世観音菩薩、観音経を調べた際に枝葉として得た学びの一つ。
今の時代は便利になって、知らないことは直ぐに調べられる時代。昔は本しか調べる術はありませんでしたから、図書館などに行き本を借りて来る。読んだら返す…… 調べたことすら忘れる。また借る。また忘れるの繰り返しでした。わたしも三毒までは覚えています。自分で"痴れば芳し(しればかんばし)"と使っていますから、覚えていなければ使えませんね。でもあと二つが何であったか忘れてるわけです。
ご存知のように仏教は哲学ですから、これ以上深入りすると痴れてしまうかもしれません。深入りも程ほどにしておいた方が良いかもしれませんね(笑)
ここでものを書いておられる皆さんは、程度の差こそあれ哲学をお勉強している真っ最中の皆さん。自分の考え方を纏めたり、それを発信する行為は自分の哲学を自分の生きる姿に重ねることに他ならないのですから。
本来哲学は燈台の明かりの様なもの。
ですが時として"灯台下暗し"が示すように、近すぎて見失ってしまうこともあるようです。言葉を操る目的が何であったのか、自分が発信しようとするものが何であったのか。
だから時々確認とメンテナンスが必要になるのでしょうね。わたしなんかメンテナンスしても忘れるし、メンテナンスも忘れる。
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※人が齢を重ねその命の灯の長さに、残りの短さに思いをはせたとき。必ず懺悔、慚愧の時至る。夢殿を前に救世観音菩薩の救いの手を待つも良いが、いっそのこと痴れてしまえばこんなによき(芳し)ことは無いと読んだ、なんとも毒を毒とも思わぬ懲りない様、業を顕した様なのです。
ここでは45名もの皆さんにスキを頂戴することができましたことは、感謝をはじめとする様々な思いが渦巻くことは"あながち"であることご理解いただけるでしょう ?
"こっぱずかしい"と書きましたが読める人に読まれるとこっぱずかしいのでございますよ(笑)
世一 拝
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