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随想一夕『美術作品・芸術作品、アートを前にした"素人"が最も感じやすいと思われるファクト』

随想一夕
『美術作品・芸術作品、アートを前にした素人が最も感じやすいと思われるファクト』※ここでいう素人とは、書くまでもなく、わたし込みの素人である。悪しからず。尚、誤解を受けるのは詰まらぬので書き添えますが、本稿は例によりまして多分に書き手の主観が支配的であります。ご寛容のほどを

わたしの考える答えから書いてしまおうか。それは「時間」である

例えば、この画、速水御舟作 椿花瓶彩だが、凡ての花は満開にほころんでみせているが御舟は
何故、蕾をつけなかったのだろう。
ご存知のように、花の開花には花序という節理があるが、これも無限花序と有限花序に大別されている。概ねの開花摂理に基づくなら、主軸茎頂のものから咲くのだが、画を観てもわかるように"枝"頂であることがわかる。それも3種類の八重椿が活けられている。
このことから考えるならば、季節は4月後半から5月前半がイメージできるだろう。
有体に読み込むなら、最後の花が咲いている頃合いだろう。
今が盛りをここに終え咲き競い、わが世の春を謳歌する命ある蝶。
ともに命(時間)には限りある。と考えると御舟の凝着姿勢やテーマが見えてきそうではないだろうか。

誰が描いた作品であっても、それが陶芸であろうと絵画であろうと彫刻であろうとである。芸術家というものは作品に「時間」を綴じ込める性(サガ)を捨て去ることは出来ない。逆説的に申し上げれば、どのようなものを創ろうと、必ず時間の凝着をみる。人間という命(限りある時間)を消費する生き物にとっては時間に逆らうことは不毛でしかないのである。

エゴンシーレ作「鬼灯のある自画像」さて、シーレの自画像代表作だが
思うにこの画が描かれたのは、ズバリ_________9月だろう。
長袖の黒のジャケット下には黒のシャツを着こんでいる。
鬼灯の葉は枯れ落ち、鬼灯の実の橙も深い。
高いところにある鬼灯の実は橙をおとし所々色落ちしており透かし鬼灯に至ろうとしている。
花言葉は「偽り、欺瞞、心の平安、私を誘ってください」など
チョット両極に振れた感じが、如何にもシーレらしいではないか。

 したがって、時間をかけ、命を削り仕上げた作品に「時間」が閉じ込められていることは寧ろ当然のことといえるだろう。


河井寛次郎 作 ・私には初夏、巣立ちを迎えた燕の子達に飛び方を教える親燕の姿と観えるのである。上手に飛べよ、まーるく飛べよと教えている様に。

現在では、AIも画を描くようだが、さて、AIに時間の概念はあるのだろうか。流れる水の調べに時間を滲ませることは出来るのだろうか。行き交う人の波に過ぎた時間や来るべき時間を感じさせるだけの情緒があるのだろうか。わたしの書くものにA Iに関連した原稿が少ないのは正にここに集約されるのだが。便利になるのは結構なことだ。しかし、先にも書いた"情緒"という人間特有の本能に働きかける感動の引き金を持ち続けることは忘れるべきではないだろう。それが人間という生き物である。

これはヤバイのだ。この画だけで原稿が一本書ける。見たいように見てくりw

速水御舟にしろ、不染鉄にしろ、田中一村にしろ河井寛次郎、シーレ、ダ・ヴィンチ、カラヴァッジオにフェルメール。ルノアールにデュラー、伊東深水、三島由紀夫に吉行淳之介、遠藤周作、北杜夫、太宰治に永井荷風

田中一村の手によるアカショウビン達。一村はこのアカショウビンに自分を重ねたと云われている。目ひとつで喜怒哀楽を顕していることが伝わるだろうか。そして、わたしは一村が描くこのアカショウビンに秘密をみつけた。どれも正面から描いたアカショウビンは無いのである。すべてのアカショウビンは横顔しか見せていないのだ。主体となる対象への凝着姿勢と比較し、アカショウビンは手抜きにも思える描きようなのだが、さて、一村は何故そのような顕し方をしたのだろうか

ここの原稿を賑わした数々の芸術家たちにとって「時間」がどういうものであったのか。素人はプロの真似などするまでもなく。普遍的な存在を軸において眺めてみるのも一つの手だろう。以前も書いたことだが、ダ・ヴィンチは2000年を遡り勉強し、300年の未来を見据え研究した人間である。そういう人間のことを勉強しようとするのであれば、わたしの様な凡人は2500年を学ばなくばならないのは当然のことなのだ。

以前も書いたことだが、それはヒストリアンにお任せすることが現実的であり賢明な判断である。わたしのような素人は、精々作品を通じて削られた命の時間であり、閉じ込められた時間を感じ切ることが現実的と思えるのである。

大丈夫だ。時間を感じるためのファクトは限りなく存在する。それを引き出すために必要なことは、なり切ってみること。繋がってみることなのだが。

これを簡単だと書いてしまえば、何やら一層と怪しげに映るのであろうなぁ(笑)

本稿の締めくくりに寄せる言葉として付け加えさせていただくが、ここにご参集の皆さんの時間がすり減ってゆく中、皆さんにとって優先するものは次のうちどれだろう。
①何者であったかであり、何者たらんとすることを欲したか。
②何を遺したかであり、遺したものが人々の手に届くところにあるか。

わたしは書くことや表現することを目指した時点で完全に②に落ち着いた。
なぜかは簡単だ。書いたものであり、表現されたものを咀嚼し、溶かすことができる者は、どの道そういう中で生きる者たちである。従って、そういうものと関わりのない者にとって「何者であったか」等というのは全くもって馬鹿馬鹿しいにもほどがあるのである。
言うなれば、身の置き所。
 幸いにして、少なくないものを遺すことはできた。あとは作品を書き、作品を仕上げ、作品を遺してゆくこと。そういう中にいる人たちに存分に楽しんでもらえれば本望なのだ。


※随時手をいれてゆきます。ご寛容を。
本稿は年内に仕上げる美術芸術系のコラム・エッセイ集への収録を目的としています。
 もしもコメントを頂けたら、コメントも同時収録させて頂きます。
 是非、思い出の一つにご一緒にいかがでしょうか♬ 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 世一


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