親の死に目がいま来るのか
父が長くないらしい。
現在父は鼻から胃にチューブを通してもらい、栄養をとっているらしい。
そのチューブを取ると長くはもたないということらしい。
「らしい」という理解しかできないのは、離れて暮らしているから状況があまり分からないということと、このご時世のために父の近くにいる母も病院に見舞えていないから。
本人を含め、家族みな延命を求めていないということからチューブは近く外される。
父はアルコール性アルツハイマーのため、もはや母や私のことも分からず、意識もほとんどない。
コロナとはまったく無関係だが、しかし移動が制限されている今、予想していなかったところからコロナと関係性を持たされるなんて、思いもしなかった。
さて、親父とのことはいつか何かのカタチで残そう・いや残さねばと思っていたので、いっそnoteに綴りたいと思う。…亡くなったら。
いま現状では、私は「親父が亡くな(る)(った)」ということに、一般的な感覚を持ち合わせることができない。
清算したい。
いろいろあったから。
それがコロナのせいで余計にモヤモヤすることになろうとは…
いずれ来るであろうことはもちろん分かっていたけど、できれば今じゃないほうがよかった。
ホントに亡くなったとき、自分がどんな思いになるのか、どんな行動をとるのか、あまり予想できない。それも含めて「父親の死」には向き合おうと思う。
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