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学部生の文章に論理性を求める感情重視派の大学院生の話

「職業病は何か」そんな話を聞いたことやしたことないでしょうか。

私は大学院生という職業をしていますが、1つこれは職業病と言えるのではないかと自分でも気になっていることがあります。

それは相手の発言であったり文章に対して、
すぐ「なんで?」って聞いてしまう・思ってしまうことです。

そんな自分が少し嫌になっている話をします。

ちゃんと断っておく

予め断っておくと、「大学院生だからすぐなんでと聞いてしまう」というのはそれこそ論理的ではないと思います。

なので誤解のないように断っておくと、
自分がお世話になっている教授が論理性をとても大切にしていて、論文指導などをお願いする中で自分も同じようになった。ということが正解に近いです。

論理的でない文章を許容したい

私は大学院生として大学の学部生の文章指導や時には評価することもしています。

その中で私は「論理的であるかどうか」をとても大切にしている。
パッと思いつくだけでも次の2つがある。

・主張→理由→根拠を例に文章展開に説得力があるか。
・構成材料として、主観的な経験などだけでなく客観的な事実から構成されているかどうか。

このような点を大切に私は人の文章を読んでいる。


上記を満たしていないと感じる文章に出会ったとき、
主張に対して理由がない、理由の源が見えないとき、
私は「なんで?」と反射的に思ってしまう。

その文章に対する評価も下がってしまう。

いい文章であることと、文章が論理的であることは必ずしも同じとは言えないとわかっているのに。

いい文章なのは論理的な文章?

論理的な文章を許容したいと偉そうなこと言っていますが、
私自身の『あずのおと』は論理的ではないはずです。

あと、考えたことの垂れ流しなので文章展開もめちゃくちゃです。
こんな理不尽な主張をする人が学部生の文章を見ているのです。


私は「いい文章」にとって論理的な文章であることは必要条件ではないと思っています。

むしろ読み手としても書き手としても、
一個人としては感情剥き出しの文章の方が大好きです。

書いた人の為人が相対的によく伺える文章という点で、
論理的な文章より感情的な文章を好みます。

客観的な論理性が重要視される文章を書く、大学院生なのに笑えてきますよね。

ルールを超えて文章と書いた人を理解したい

論文という枠組みだと〜
随筆という枠組みだと〜
手紙という枠組みだと〜

というように、形式・目的によって正解やルールがあると思います。
少なくとも論文にはあるので。

だけど、「論文」という枠組みの中で論理的に書けていないからといって、文章そのものの評価を低くすることやすぐに「なんで?」って反射的に聞くことに対して私は懐疑的になっています。

正直機械的に反応してしますそんな自分が嫌です。

そこを割り切って人の文章を評価することが正しいのか悩む、そしてそもそもそんな枠組みがなければ…と幻想を抱いています。

文章を評価することもある一大学院生の読み手として、
どのように大学の学部生を導くか理想と現実に揺れる話でした。

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