行動の原動力としての「不安」を考える
「真面目だね〜」
「(私)と話していたら頑張ろうと思える」
私と近況を話しているとそういう反応をしてくれる人がいる。
その理由として自分の非効率さとかもあるかもしれないが、確かに他の人と比べると、何かに取り組んでいる時間は長いかもしれない。
しかし、私は自分がしている行動は「不安」という感情に基づいたものであると感じている。
今回は自分の「不安」に基づいた行動と、それについて考えた末の着地点について話したい。
自分だけではないらしいが…
ちらっとTwitterで若者の行動の原動力は「不安」という感情と結びついているというニュアンスのツイートを見かけた。
若者で一括りにできるのか。
と疑問視した一方で、一定数私と同じような人はいるらしい。
自分の「不安」と結びついた行動
不安に基づく自分の行動を考えてみる。
・残る必要がなくても夜遅くまで研究室に残る
・することリストを常にたくさんある状態で抱えている
・ガイダンスなどに対して迷うくらいなら参加する
・わからないことは自分で考えた上で他の人にも聞く
・自分と他の人を比較する
・常に研究関連のことができるようにタブレットを持ち歩く
・休日の半分以上が遊ぶ予定を入れたくない
パッと思いついた範囲でもこんな感じ。
全ての行動に「不安だから〜」という言葉が足される行動だ。
例えば、「残る必要がなくても夜遅くまで研究室に残る」という例では、理由もなく早い時間帯に帰宅すれば落ち着かない。罪悪感も感じる。
不安の行動「過程」と「結果」
私自身これらで問題だと思うのは、結果ではなくて過程で満足してしまうという点にあるという点だ。
同じ「残る必要がなくても夜遅くまで研究室に残る」という例を用いると、研究室に残って得られた「結果」ではなく研究室に遅くまで残っているという「過程」で満足しているのだ。
不安だから行動するというなら結果が伴っていないということは致命的ではないか。時間を浪費しているだけと考えられるからだ。
さっさと帰宅して趣味に打ち込んだ方がよっぽど有意義ではないか。
不安に基づく行動はいいものでは?
上記で「過程」を重視しているからという理由で少し否定的に、不安に基づく行動を捉えた。
ちなみに、こちらサイドの話だが上の内容は1ヶ月前までに書いていた。
ここからは、1ヶ月後に自分との対話や人との会話を通して考えた話。
その考えとして、私は2つの観点から「不安」に基づいた行動自体を否定的に捉えなくなった。
・行動しているという事実は、即効的に「不安」を和らげてくれる。
・行動した結果、長期的に自身の変化・成長につながる。
短期的な観点と長期的な観点の2点である。
その場で「不安」を和らげつつ、長期的に根本的な解決につながる成長にもつながる。
このように表現すると、不安に基づく行動自体悪くないのではないか。
あまりにも「即効性のある根本的な解決方」を求めるから、先の内容では否定的に捉えてしまったのではないか。
「不安」を即時的かつ根本的に解決することは難しい。
根本かつ能動的に解決することを選ぶ場合、この2つの観点を満たした「不安」に基づいた行動は客観的にも否定的に捉える必要がないのではないか。
実は続きを書こうと思っています
上で述べたようなことを考慮すると、以前私が話した「自分のために努力することができない」ということは嘘かもしれない。
だが、それでも屁理屈のように一部否定したいとは思う。
あくまで、目的は自分の不安などを払拭するため。
自分自身が最低限のパフォーマンスを発揮することができるようにするためだ。
その点、常に向上心を持って取り組む人たちと同列で扱われることは少々心が痛む。
ここでまた「他人との比較」という点が出てくる。
私は、他人に憧れることや目標にすることはいいことだと思うが、それを比較対象にするべきではないと思っている。
そして、「不安」というものは様々な要素と結びつくと感じている。
例えば、思いついている限りではこんな感じ。
「不安」と「自他比較」
「不安」と「自信」
「不安」と「我慢」
そんな話をまた近々しようか。
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