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公民連携事始その4

2014.10月

  • 先月経営プロフェッショナルスクールの富山北陸キャンパスの合宿に参加してきた。AC(アシスタントコーチ)という役目もあったのだが、僕にとってこのスクールは人生を変えてくれた、とても思いれのある故郷のような存在なので恩返しの意味もあるのである。

  • かといってお腹を膨らませたカエルのように自分を大きく見せることなく、等身大のありのままで接することができる貴重な場なのだ。

  • そんなこんなで現役生と会話していると、「成功事例の人」のような接し方がこしょばい。君たちよりも全然だったからねと叫んでもバイアスがあるようで。

  • そんなことならば少しずつこれまでの生き様を紐解いていこうとキーボードを叩いている。では、始めます

  • なんで4から?単にスターウォーズが好きなだけではなくて、スクール入校前夜はすでに結構話しているからだ。むしろ違う切り口でスクール在校時を語る方が参考になるかは別にビビッドだろう

  • 最近は拝見しないけど、公民連携事業機構のパンフには公民連携事業の進め方が掲載されていて、原則行政に対してフェーズが順番に記載されていて僕は本当にひたすら進めてきただけなんだ。

フェーズ1 専門家集団と連携せよ
僕が木下さんと出会ったことはエピソード1に書くつもりだけど、完全に徴兵で無理に連れて行かれたセミナー、ここから単を発する。
その後、1、2、3と物語はあるけど、のちに遡るとして
2015年5月に岡崎さんとともに職員研修で大東市を初めて訪れた木下さんから渡されたのが「公民連携プロフェッショナルスクール開校」のチラシ、
50歳を過ぎ、部長にもなれば定年まで自動運転にし、「大過ない」公務員人生を過ごせる誘惑と「大東市はこのままでいいのか、悔いはないのか」と自問を繰り返しつつも娘たちが楽しみにしていたディズニー貯金を泣く泣く取り崩し入校したスクール、これが大きな転機となります。

ここまではこれまでもお話をしてきたのですが、実は木下さんのセミナーが2014年10月、そこから公民連携をやれと命じられて木下さんへアタックしつつ、裏では総合戦略のたたき台を作り始めていました。つまり公民連携を市政の運営の柱に位置付けることで推進力と持続力を庁内、議会にオーソライズさせたかったのです。
4月から策定スタートした「大東市まち・ひと・しごと創生総合戦略」には「たたき台」を踏まえて"民間が主役”というフレーズを入れ込んで公民連携推進への布石を作っておきました。
で、5月に木下さん、岡崎さんの職員研修で公民連携の必要性を部長以下多くの職員に知らしめ(尤も木下さんのTシャツ、短パン姿と喋りから「あの漫才師みたいなやつはなんや!とお笑いの地元大阪でも一目置かれるも理解はできなかった人多数でしたが)、6月から僕はスクール受講開始し、一方で総合戦略は着々とゴールに向かっていました。

議員、幹部級職員への根回しとスクールのフィードバックを僕が担い、部下二人は戦略の肉付け、庁内調整、機構改革案の作成をしてくれました。
根回しの戦術は同伴釣りはじめ新聞購読など相手が懐に入るためには何でもやりました。
多くの自治体が2015年度中に策定予定だった総合戦略、大東市ではなんとしても9月末には完成させて10月から推進組織を立ち上げたかったのです。
なせかというと「戦略」ですから他の自治体よりも先んじて策定しでスタートダッシュしたかった、大阪で一番乗りすればマスコミに取り上げられる、となると政治家は喜ぶ、肯定的に掲載されれば「公民連携」へのアドバンテージにもなります。
強かな戦術でもあったのです。
これは成功しました。
一番に策定をプレスリリースしたところ5大紙だけでなく、スポーツ新聞まで取り上げてくれて周知されたのです。
9月議会に組織機構改革案を上程し、公民連携推進の専門セクション「地方創生局」を創設するという目論見は
こうして環境を整えて無事にスタートします。

10月1日地方創生局はスタートしますが、慣例で辞令をもらうまでは元職場に出勤し、夕方に初顔合わせをします。事務職、土木職、建築職の寄り合い所帯の5人でしたが、ほんと挨拶程度でその日は終わり、次の日から僕はスクール合宿に旅立ち、本格的に出会うのは翌週になります。
この合宿期間のお話はまだ別の機会に書くとして(別ばかりですみません)、

岡崎さんから「こんなんやるんで誰かがだせ!」と渡されたのが
「オガール暖簾分けプロジェクト」一年間岡崎さんの元で弟子入りするという内容です。

実はこれ、大東市ではかなりのハードルでした。
これまで民間どころか国派遣も前例がなく、転勤しての制度もありませんでした。

まず市長に「岡崎さんからぜひともと」言われましたといい、人事課には「市長がぜひとも」といい、方便を使い分けました。
その後、事務の調整は部下が人事とやってくれたのですが、このあたりから「アマゾンの密林を切り倒して部長は進むけど、後を整地して道にするのは私たちですからね!」「蛭に血を吸われ、ピラニアに噛まれても後ろ振り返らない、人でないです」と言われ出します。
当時は日々出張という形にして、毎日岩手県に行ったことに形式上はしていました。これ、部下が見事に編み出してくれたんです。今は国への研修派遣や民間派遣も始まっていますので制度は整っていますが、この時は苦肉の策でした。

ここまでもそうですが、僕はひたすら市長に命じられたことを忠実に、その後に出会った木下さん、岡崎さん、清水さんの言われた通りにやるだけです。
「守破離」です。なぜ守破離だったかって?
前例のないことをやる、それも日本でほぼ例がない、それをやれとオーダーされて
参考になる本もない、学びの場もない、藁をもつかむこともありますが、なんか怒られつつも新しいことにチャレンジしている高揚感が勝っていたんです。
大東市が変わるかもしれないという。

さて、「フェーズ1 専門家集団との連携構築」に続くフェーズ2「市町村内に横断的組織を構築し「(仮称)公民連携基本計画」を自ら策定する」をやるために合宿から戻って早速2016年度当初予算に”デザイン会議組成、公民連携基本計画策定などの関連予算を要求し、財政課に認めさせます。
(当時の財政課長は財政課時代の部下ですから回し蹴りです)

その後、追加で「暖簾分けプロジェクト」の要求も年明けにねじ込み(市長復活要求です、はい)、財政課の職員からは元々僕が他の部署から引き抜いて異動させたことも相まって「被害者の会」が結成されます笑

専門家集団との連携、横断的組織の構築を終え、いよいよ怒涛の2016年度編ですが、それはもう少し後のお話ということで(続く)







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