『2022年に観た映画』3選
はじめに
読書に2か月遅れ、今年鑑賞した映画も100本に到達した。
サブスクリプションに大いに頼った。
職場が街から離れてしまい、当初願っていたよりも映画館に行くことができなかった。
お気に入りの居心地良きTSUTAYAも、サブスクの波に呑まれてなのか、ついに閉店してしまった。
大安売り(貸し、か)でレンタルしたソナチネをMacBookで再生した。
あーあと思う。
北野映画はサブスクにはないから。
ユナイテッドシネマの隣に住めればどんなにいいだろうと、手の中の世界と睨めっこをしながら、特に夏中思っていた気がする。
1 『トウキョウソナタ』
キャスティングされた主要な2人が、『贖罪』と同じだったのだなぁと思いながら観た。
こちらでの香川照之は、大変ブラックなコメディに奉仕していた。
兄がアメリカに行きたいと言う理由にも、もう一方の知人の顛末にもヒッとなってしまう。
私は描かれたその裏寒さを、いつもの様にエンターテインメントとして受け取った。
もう一つの観点として、当然デフォルメされているにしても、家族の本質とはこのようにグラグラとしたものなんだよなと考えてしまう。
それでいて、当たり前のように特別で、取り替えが利かない。
平凡な主婦です、という顔でキョンキョンがドーナツを揚げる。
立ち振る舞い全てがまるで、母として、妻として家族を振り子の正しい位置に戻す体を取るかの様だ。
けれど絶対的普遍的に正しいことなどない。
故にキョンキョンだって真っ当であるはずがない。
やがて物語上の信頼できるはずの主人公の正しさが曖昧になっていく。
誰を頼りにして観ればいいの?とかまともであるってどういうことだったっけ?という不安と、画面上の不穏な演出の取り合わせが非常に良いので胃とか頬とかを浮つかせて鑑賞するのが好きな人には、黒沢清の作品が好まれるのだと思います。
加えて、私の無類の子役の演技好きについても言及しておかなければいけないと思う。
ちょっと作り物の、紛い物の、仮の、永遠には続かない少年の声。
気づいちゃったんですけど、2008年って一番いい年だったんじゃないかと思うんだよね。
わたしが14歳の時。
そのことに14年が経って、気づいてしまった。
私の中での2008年問題ついては、またいつか書こうと思う。
2 『ホドロフスキーのDUNE』
『エンドレスポエトリー』をディノスで観たあの頃は、アート映画的エッジがトゲトゲにバカ効きしててヒャーって思っていた。
こわくて未だに『リアリティのダンス』を観ることができない。
ところがアレハンドロ・ホドロフスキーという監督は、にっこにこして大変可愛らしかった。
舞台からやがて映画作りへと向けられた自身の創作について語る彼の心も、同じく大変愛らしい。
そして息子が隣に並ぶ。
花嫁のドレスを脱がせて、情熱を注いで、その結果たっぷり傷ついてもこんなに潔く居られては、簡単に観たかったなんて嘆くこともできないな。
結果じゃなくて過程。
ナイスドキュメンタリー。
こんな後出しジャンケンならば大歓迎だ。
作られてしまったものと、作られなかったものについて。
ブーンと鳴る音。
そして私は色づかいに注目せざるを得なかった。
サブスクを整理して、そしてしばらくu-nexterで居ようと決めた一作。
3 『いまを生きる』
秋の情景はこんなに美しく作り込まれているのに、家族と今より先のことは何にも見えない。
虚飾とおためごかしを完全に忌避する姿勢のことを、途方も無くいいなと思うんだ。
中高一貫校に通っていました。
寄宿舎でもなく、死せる詩人の会を作らなければならないほど追い詰められた環境ではなかった上に、机の上に立たせてくれる先生が多かった。
ただ少しの閉塞でした。
それなりに嗜められたり許されたりして、逆らったり聞こえないふりをしたりした。
6年間で身につけた物事を多角的に見る目は、これからも自分で育てていかないといけない。
今度は私が少し違うところに立って、凡庸であることを許さない態度を、果たしてどこまでとれているのだろうか。
物語の運びだけで、ここまで考えることが容易だった。
詩そのもの、その詩が作られた背景、直接の問題として自身に迫ってこなかったことまで考えていけば、この作品はどこまで広がりをもってゆくのだろう。
逃げないで、秋と文学のことをもっと好きになる。
おわりに
誰よりも何者でもない(それが特別視だけれど)私が指差した3つはこれだ。
100から10に、そこから3つにすることが本の時よりも大変だった。1つは途中で取り替えた。
時間に目を向けたものに目が向くんだ。
もしかすると今を生きることができていないんじゃないかと気にする私の、1番の関心事だから。
そしてこの選定に 人の好き が介入してくることを拒んだ。
好きな人の好き、はその人のものだからね。
基準は、後に分類できないけれど、指しておかなきゃいけない!と思える3つだった。
黒沢清の系譜の中でキョンキョンにばっかり言及できないだろうし、「存在するはずだった」情熱映像制作ドキュメンタリーはそうないし、ロビンウィリアムズが何で笑わせて何を救っていたのかを今、考えたかった。
100のうち殆どは、どのみちかなり近いうちに分類して放出することになるんだ。
何のためかというと、私のためだ。
自分の輪郭をはっきりさせるために、こんなことをしている。
こうして選んでみると、分かったことがあった。
共通項は家族だった。
ぜーんぶ父と息子。
となればもう一つ書き留めておきたいのが、これだ。
番外編 『カンフーパンダ』
1〜3まで一挙に観てしまった。重厚。
運命と居場所と「ない」ことについて勇気をもらいながら観ました。
立っている場所が過去でも未来でもなく今なんだということ。
奪うほど失うし、減るんじゃなく豊かになるんだということ。
それに気づくことができたなら、人間としての器とか間口が広がっていくんだろうか。
親になるって、取り返しのつかないことだものね。
でもそんなことを心配ばかりしていると動けなくなってしまう、ということだけはよく分かる。
ひとまず取り返しのつく子どもとして、稽古と屈辱、どっちの次がないんだろうとどきっとした。
子ども向けの絵本とは基本的に、物事に対する大きな例えだと思っているので、全て矢印は私へ。
大好きな陰陽マークがたくさん出てきて嬉しかったです。
階段よいしょってなるところが同じだったので、少林寺拳法習いたいです。
おしまい
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