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死にたいに抵抗する方法

こんな世の中だからか、世間には『死にたい』があふれている。
SNSで検索すれば腐るほどヒットするし、実際に僕の数少ない友人も顔を合わせるとげっそりした様子で「死にたい」とつぶやいたりする。というか僕もよく言っていた。

でも『死にたい』と言う人が死ぬことはなかなかない。
もちろん、本当に死ぬ人はいるが、死んでしまった人は『望み通り死にました~』とは言わない。だからか、死んだ人は観測されない。まぁ、これは僕の狭い観測内のことだが…。実際にそうなら、死人に口なしとはまさにこのことだろう。

そのせいか、『死にたい』という言葉はすっかり軽くなっている。
この言葉を見た人の反応はおおむね

『はいはい』
『死にたいなら死ね』
『でも人様に迷惑かけないようにね』

などに分類される。
要は、まともに相手されないのである。
(僕が『死にたい』と言わなくなったのはそのせいでもある)

死にたいという表現を使わなくなっただけで、僕の中には源泉となる気持ちはいまだにある。その証拠に、消えてなくなりたいとかだるいとかもう嫌だとか、そういうことはたまに口にする。
Twitterなどで僕の発言を見て、ネガティブに巻き込んでしまった人は申し訳ない。

しかしこうして、形はどうあれ死にたいから距離をとったわけだが、結果として、漠然とした憂鬱さと疑問が残った。
要は『この気持ちはなんだろう』である。
こんな合唱曲みたいな疑問を三十路過ぎてから真剣に考えるとは思わなかった。そう考えるようになったのは、気軽に死にたいと言わなくなったおかげだろう。
冷ややかな世間に少しだけ感謝する。
結果として、僕は『死にたい』を黙って見つめることを余儀なくされ、抵抗する方法を少しだけ編み出せたのだ。

今回は、メモ書き代わりとして、死にたいという気持ちへの抵抗法をお届けする。

人はどんな時に死にたくなるのか

自分語りになるので控えめにしておくが、僕が初めて『死にたい』に類する願望を抱いたのは小学3年生か4年生だったと思う。
原因は陳腐な家庭問題だったが、そのことは別のマガジンで話すとして、僕は確かに『死にたい』『消えてなくなりたい』『生まれてこなければよかった』と強く思った。

それ以降、僕は現実に窮してしまうと『死にたい』と思うようになった。
いつか、その言葉は口癖のようになっていた。

僕が死にたくなるのは、まぁ安直に言えば辛い時である。
だが、死にたくなる辛さとそうならない辛さは少し違う。

そこを分けるのは、辛さが自分でどうにかできるかできないかだ。

例えば、マラソンの苦痛や腹痛、頭痛などの身体的な辛さで死にたいと思ったことはあまりない。
自分から降りられる辛さの場合は死にたいとまでは思わないのだ。
『死にたい』が顔を出すのは、決まって自分ではどうしようもない辛さに襲われたときである。

さて、人にとってどうしようもない辛さとは何だろうか。
簡単に言えば、逃げようのない、立ち往生のような状況で産まれる辛さである。

非常に多いのは、家庭問題から逃げられないパターンだ。特に子供に多いだろう。
子供は家庭をどうすることもできない、背伸びして家庭内での役割を負うことはできるが、それは根本的な解決にはならない。
(この後遺症がアダルトチルドレンや枝葉の精神疾患となる)

次に多いのは仕事だろう。
恵まれた人ならまだしも、たいていの人は仕事をしてお賃金をもらわないと生活ができない。
また、下手に正規雇用とか正社員にこだわると逃げ場がなくなってしまう。それこそ、家庭の次くらいにはどうしようもない状況を産む。

学校や人間関係もそうだろうか。

本当に死にたいのか?

こういう状況に追い込まれた人たちはだいたい『死にたい』とつぶやく。
なぜかというと、自分の辛さや感覚にふさわしく、またアウトプットが簡易で目立ちやすい表現が『死にたい』だからだ。
『死にたい』には、様々な角度の辛さに対する、安直なフィット感がある。

なので、僕はこの言葉を言い続けた。
結果として大した成果は得られなかったが、
これは本当に死にたいなのか?
という疑問が残った。

少なくとも、死にたいと言っていた頃の僕に本当に死にたいのかと問いかけたとして、素直にうなずくかどうかは疑問だったのだ。

僕は本当に死にたかったのか、死にたいのか。
それとも、これはまた別の気持ちなのか。

考えた結果、僕の『死にたい』を正確に言うなら、
『この状況から逃げたい』
『誰か助けてほしい』
『もう何も考えたくない』
あたりがより近いだろう。

さらに具体的に言えば、
家庭の問題
仕事の負担
収入と生活のアンバランスさ

これらによる辛さケアとなる要素の不在となる。

こうしてみると、家を出るとか仕事を変えるとかの対策が見えてくる。
だが、なぜそれが『死にたい』という表現に変化していたんだろうか。


それは、要するにサボりである。
辛さを雑に、おおざっぱに表現できるから『死にたい』が出るわけである。
『死にたい』というのは、表現をサボった結果だったわけだ。

似た例としては『うざい』『キモイ』だろうか。
これらも、言い知れぬ不快感の表現をさぼった結果として生じる言葉だ。ざっくりとわかりやすく不快感を表明できるので、これらの言葉も世にあふれている。
人間とは楽をしたがる生き物で、内心の表現ですら隙あらばサボるものらしい。

表現をサボるとさらにきつくなる

死にたいと言わなくなって感じたのは、気持ちの表現をサボるとさらにきつくなる。

何らかの本で読んだ気がするが、人はストレスとなる出来事や影響以外に、気持ちの言語化ができないこと自体にもストレスを感じるそうだ。

なので、言葉に触れる機会の少ない子供は、ストレスそのものと、不快感を的確に表現できないストレスの二重苦にさいなまれることになる。
家庭環境がよくなかったりすると解決策もなく表現方法もない、まさに立ち往生となる。
結果、死にたいと言ったりするようになるわけだが、他にも雑な表現方法はある。
それが暴力である。
男の子の場合は他人への暴力、女の子の場合は自分への暴力になりがちだ。

言語化の大切さ


僕が提唱する対処法は『とにかく言語化する』ことだ。

正体不明で言語化不能の辛さほどしんどいものはない。それこそ、死にたいに死にたいが重なるくらいに辛くなる。
だが、死にたいを腑分けして説明可能な状態にすることで、気持ちはだいぶ変わる。

それに、火のないところに煙が立たないように、現実的な問題なくして辛い気持ちは出てこない。どのような現実が自分を辛くしているのかを言語化することで、対策が見えてくる可能性もある。
(問題解決のために実際に動くのもしんどいが、立ち往生するよりは気は楽だったりする)

なので、死にたい類の言葉に悩まされている人には、気持ちを解剖、つまり言語化することをオススメする。
言語化は自分を楽にするだけでもなく、周囲にわかりやすく問題を伝える手段にもなる。

言葉が苦手なら辞書を見てみるといいかもしれないし、とりあえず衝動が抑えられない人は試しに紙に気持ちを吐き出してみてもいいかもしれない。
(スマホやPCの入力でもいいが、手を動かしたほうが脳にも良いそうだ)

弱者の中の弱者は『死にたい』から降りろ


さらに言うと、弱い人の中でもさらに弱い人は、安直な『死にたい』から降りることをオススメする。

死にたいといえば、多かれ少なかれ共感を集めることができる。
共感というのも意外と大事で、それだけで気が楽になったりするものだ。
だからみんな『死にたい』でインスタントに共感を集めようとするのだろう。
結果として死にたいはネット上にあふれている。

だが、共感を集められるかどうかにも差がある。
悲しいことに、同じ類、レベルの辛さでも、救われるかどうかには格差があるのだ。
この差がさらなる死にたさを産むことも珍しくない。

共感を集めやすい、強い人ならインスタントな手段でもある程度は満たされる。しかし、共感を集めにくい弱い人の場合はそうもいかない。

自分が他人の庇護欲を掻き立てられるタイプかそうでないかは、誰でもある程度はわかるだろう。
これは『大きく黒い犬問題』などの言葉で問題視されていることでもあるので、興味がある人は調べてみよう。

そして僕という人間は、共感を集めるという点でも弱い部類に入る人間だった。
こうしてややこしいnoteを書いているのは、その弱さゆえに、言葉を駆使しないといけないという理由もある。
こういう記事を書いて、知らない人から『スキ』をもらうだけでも、心が軽くなることがある。

死にたいの対処法まとめ

ということで、今回の言いたかったことをまとめてみる。

①死にたいの源泉となる問題を言語化する。
②言語化した問題を表現する。
(自分が共感を集めにくい人間なら、ネットで表現するのがベターだ)

まとめてみると実に簡単な話だが、これは重要な作業だと思っている。

その過程で現実的な対策が見つかることもあるし、思わぬ方向から救いのきっかけが生まれるかもしれない。
とにかく、何もしないよりはマシということだ。

この記事が、
【『死にたい』を言い続けて、そんな状況にもうんざりした人】
の参考になったなら幸いだ。

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