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『努力不足』に惑わされないための『努力』の腑分け

最初に言っておくと、僕は努力という言葉が心底嫌いだ。
やたらめったら努力とのたまい、他人を努力不足と断じる人間に至っては、軽蔑すらしている。

しかし、努力という言葉は表向き良い言葉なので、
それが不足しているといわれるとモヤモヤしてしまうのも無理のないことである。
僕も努力不足とよく言われ、今でも少し気にしているくらいである。

ということで、
今回は努力という言葉を腑分けしながら、
努力を出汁にした罵倒、自己批判に対する心構えを書いていく。

日ごろ努力不足と言われる。
または自分を努力不足と断じてしまう癖がある。
こういう人の助けになれば幸いだ。


努力ってなんだよ

そもそもの話になるが、努力というのはなんなんだろうか。

わからないことがあったらまず検索、ということで、コトバンクで調べてみた。

[名](スル)ある目的のために力を尽くして励むこと。

コトバンクより引用:
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%AA%E5%8A%9B-106568

だそうだ。
目標達成のために頑張ることは、だいたい努力に該当するらしい。

いい成績のために日夜勉強する
大会で勝つために部活の練習を頑張る
収入を増やすために資格を取る
体重を減らすために節制する

辞書の通りに解釈するなら、これらすべてが努力に該当する。

しかし、個人的にはあまりしっくりこない。

これらが努力と言うのなら、生きている人間のほとんどは努力をしていることになる。

極端な話にはなるが、
起きたら体を起こし、飢えないように食事をとる
などの日常的な行動の継続だって、生きるという目的のためなのだから努力となる。

しかし、起床や食事を努力と捉える人はなかなかいない。
最初に挙げた勉強や運動、ダイエットだって、必ずしも努力と言われるかというと、そうでもない。
同じくらいの期間、同じだけ活動した場合でも、人によって努力認定される人とされない人がいる。

辞書の通りなら、今を生きるみんなが何かの努力家なわけだが、現実はそうではない。

現実で使われる努力は、身も蓋もなく、また醜悪な基準を持っているのだ。

勝者を美化する言葉としての努力


努力というのはもっぱら、上手くいった人、いわば勝者の行いを後付けで賞賛するための言葉である。

人気漫画、『賭博黙示録カイジ』の利根川先生がこれについて名言を残しているので引用する。

勝たなきゃ駄目なんだ。
ドジャーズの野茂、将棋の羽生、イチロー・・・・。
彼らが今脚光を浴び、誰もが称賛を惜しまないのは、言うまでもなく、ただ、彼らが勝ったからなのだ!
勘違いするな。
よく闘ったからじゃない。
彼らは勝った。
ゆえに今その全て人格まで肯定されている。

もしも彼らが負けていたらどうだろうか・・・・?
負け続けの人生だったらどうだろうか?
これも言うまでもない。
恐らく野茂はウスノロ。
羽生は根暗。
イチローはいけすかないマイペース野郎。
誰も相手にさえしない。
野茂、羽生、イチロー。彼らは勝ってきた。
勝ったがゆえに称賛され、肯定されているのだ。

負け癖がついている人間は、そこをはき違える。
よく戦えば称賛される、と勘違いするのだ。

賭博黙示録カイジ第1巻:
エスポワールでの利根川先生の名演説より抜粋


カイジを知らなくても、このセリフは知ってるという人は多いと思う。
Fワードから始まる衝撃的な演説だが、その内容は現代社会の構図にも通じる部分がある。

第一に、努力とは勝者の道徳性を強調する言葉なのである。
売れないバンドマンはただのクズという話だ。


敗者復活戦、精神勝利としての努力


前項で話したような、
『努力=勝者の美化』
という事実に抵抗を感じた人は少なからずいるだろう。

それに、実際には努力しただけで褒められる人もいる。
なぜこんな概念があるかと言うと、努力を認定する争いには段階があるからだ。

勝者になれなかった中にも努力してる人はいるよね
というセーフティネットが複数存在し、それが努力の身も蓋もない意味の隠れ蓑になっている。

要は敗者復活戦である。

そして、敗者復活戦の基準となるのは、
魅力資本、そして愛嬌の貧富である。

身も蓋もない話だが、そうとしか言いようがない。

魅力資本が豊富な人が頑張る姿は見栄えするので、賞賛が集まりやすい。
愛想のある美男美女が汗水たらして頑張る姿は魅力的だが、不愛想なブサイクは何をしても見苦しいし、共感の必要性がないのである。
頑張る子犬とのたうつ芋虫、どちらを応援したいかの差とも言えるだろう。

また、愛嬌があって『どこか憎めない人』の頑張りは、周囲の共感や優しさを誘起するため、努力として認められる傾向にある。

つきつめてみればこれも勝敗に関する話であり、どこまでいっても、勝者が努力していることになる、という前提は揺るがないわけ。

しかも、敗者復活戦の判定基準は、最初の勝ち負けよりもシビアである。
容姿は生得的なものだし、愛嬌は生育環境が大きく影響するため、救いようがない。
努力認定の敗者復活戦は、単純な勝敗以上に付け焼刃が通用しないのである。

こるは優しさから弾かれるかどうかの基準と通じるものがある。
言いたくはないが、キモいかどうかも努力認定の重要な判断基準なのだ。
考えれば考えるほど、しょうもない基準である。

ちなみに、よほどの劣悪な環境でない限り、子供時代は努力認定が無条件でされ、加齢するにつれて努力認定の門は狭くなっていく。
(見た目や性別、愛嬌による個人差はあるが)
頑張ったね、で丸く収まると勘違いした子供が、成長するにつれて社会や周囲から手の平返しを受ける現象は珍しくもない。

さて、ひねくれた努力の定義と敗者復活戦の仕組みを言語化したところで、次は努力不足という言葉の意味を見ていこう。

キモい弱者の門前払いとしての努力


ここまで話してきた内容を振り返ると、努力というのは

①勝った人を後付けで賞賛する言葉
②負けはしたけど憎めない人に対するお世辞
である。

そして同時に、努力不足というのは
勝ちもしなければ、包摂する魅力もない人
つまりは『見苦しい弱者』をけなす言葉となる。

そして、努力不足という罵倒には卑劣な追加効果が内包されている。
罵倒しながらも、非を相手に擦り付ける効果があるのだ。

「お前が上手くいかないのは努力不足!!」
などと言う人は、
努力していないという、それっぽい理由をつけて相手をなじる、
という、卑怯な行為をしていることになる。

さらに努力不足という罵倒には、
具体的に罵倒するポイントを知らなくても雑になじれる
という利便性もある。
ストレス発散方法として、これほど手軽な手段はないだろう。
同時に、これほどまでに卑劣な手段もないと思うが…。

ちなみに、類似する言葉に『キモい』がある。
こちらは、
自分にとって不快な人間をなじりたいが、あけすけに言うとこちらが悪者になってしまう
なので、不快感を与えたという落ち度を指摘し、問題を相手の責任にする。
という意味を持っている。言うまでもないが、大嫌いな言葉だ。

しかし、便利な悪口であっても、必ずしも万能というわけではない。
この2つに共通するのは『現実では権力がないと使いにくい』ことである。
努力不足は勝者側でないと使えないし、キモいに関しては、多用する人がどういう属性の人かを見ればだいたいわかるだろう。

しかし、現実では条件付きの言葉も、ネットでは自由自在だ。
事実、地獄のSNSことXでは、日夜これらの言葉が飛び交っている。
用法はここまで話した通りである。
卑劣な攻撃手段を誰もが使えるようになったがゆえの地獄というべきか。

現実にしてもネットにしても、これらの言葉は
卑怯で怠慢な人が多用する
ということは覚えておこう。

ここを押さえていないと生きるのが辛くなる。

努力の基準は自分が決めるもの

ここまでで書いたように、努力不足という指摘を真剣にとらえるのは間違いだ。

努力不足という言葉を他人に振りかざす人は、往々にして表現をサボっているからである。

『気に入らない弱者を叩きたい』
それだけの感情を、もっともらしくぶつけられる言葉の1つが『努力不足』なのである。

先述したように
努力が認められるかどうかの絶対的基準は勝敗で、
敗者復活戦で努力認定されるかどうかは、その人の魅力次第(これも勝敗)
である。

そもそも努力というのは他人に測れるものではない。
そのあいまいさゆえに、卑怯な人たちに悪用された悲しい言葉なのだ。
悪口にするために抽象的にされてしまった面もあるだろう。

そのせいで、非のない人が努力不足と非難される場面が増え、努力が足りないと自分を責める人が多数出るほどになっている。

さすがに悲しすぎるので、
ここからは努力関連の指摘に惑わされないよう、僕が個人的に決めている努力の指標を載せておく。

それは

・自分ができたと思ったこと
(合法の行為に限る)

これだけである。

具体的に言うと、
朝起きたい時間に起きれた
掃除ができた
などなど、自分ができたと思ったことはすべて努力と捉えている。

雑過ぎるかもしれないが、努力なんてそんなものだ。
他者からの努力認定の曖昧さからすれば、十分すぎるくらい丁寧である。


努力不足を指摘する人の努力不足


根性論はすっかり過去の思想になってしまったが、努力論はいまだにそれっぽく世論を支配している。

しかし、根性論に何の根拠もないように、努力論にも大した意味はない。
他人が向けてくる努力云々の言葉は良くも悪くも、風向きを測る程度の意味しかないのだ。

ここまでの話をまとめると、

努力認定される人は
・上手くいっている
・魅力があって頑張っているように見える、見栄えがする

努力認定されない人は
・敗者であり、なおかつ見栄えしない

これだけだ。
覚えておくと気が楽になる。

他者からの努力認定がいかに適当かを覚えておくことで、それを利用して罵倒してくる人がいかに卑怯なのかがよくわかるし、無責任な言葉に惑わされることが少なくなる。

また、努力不足と人に指摘する人は
現実なら権力に物を言わせたパワーゲームがしたいだけ
ネットなら無責任かつ思考を放棄したまま人を叩きたいだけ
ということも覚えておこう。

そもそも、真摯な批判をしてくれる人なら、努力などとぼかさずに具体的な指摘をしてくれるものである。

なので、努力不足と他人をなじるは
具体的な批判内容を考えるだけの想像力がない
もしくは、それっぽく雑に人を叩きたい
このどちらか、あるいは両方となる。
前者であればただのヤバい人だ。
後者の場合は、
自分の不快感を分析して、言葉を選んで相手に伝える
という、コミュニケーションの基本をサボっていることになる。
要は努力不足だ。

なんにせよ、他人に対して『努力』という単語を偉そうに使う人は、大して物を考えていないことになる。

否定的な意味で言われたら相手にしない、
肯定的な意味で言われた時はなんとなく追い風が来ているくらいに捉える、
というのが妥当な受け止め方だろう。

とまぁ、これが個人的に思う、努力という言葉の受け止め方である。

ちなみに今日は休日だが、午前中に起きれたし温めた味噌汁で食事もしたし、洗濯と部屋の掃除をした。
僕の基準ではこれも立派な努力である。

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