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文章ですら予防線をはる自分に絶望した話

いつも何かを俯瞰するように、予防線を張って文章を書いていた。
これに気がついたのは、ここ数回の投稿記事と他人の文章を読み比べた時だった。

他人の文章が、どこまでも身軽に自由に書かれているように見えたのだ。キーボードやスマホで打ち込む姿とは裏腹に、内心は軽やかに舞うように表現しているように感じられた。

一方で、最近の僕の文章は予防線の塊だ。
仮にも自分の文章だから、予防線を張った意味も愚かしさもよくわかる。
深夜にガックリ肩を落とすくらいには落胆した。

現実の僕は、常に他人を警戒して、肩に力を入れて生きている。もはや癖のようなもので、肩の力を抜くことの方が難しい。
現実では常にそんな調子で生きているから、せめてネットの片隅、つまりここで吐き出す文章くらいは力を入れずに書こうと思っていた、はずだった。

でも、気づけば読む人の目を過剰に気にしていた。力んだ肩のように、文章が強ばっているのがわかる。読まれることをどこかで恐れ、肩肘張った表現に傾き、意味のない愛想笑いみたいな表現をぎこちなく散りばめていた。

薄々、自分の文章にどこか角張った感じが生まれているのに気がついていた。
人様の文章を読むことで、それが浮き彫りになった。というところだ。

いい大人になってこんなことを言うのは情けないけれど、僕は人が怖い。
何気ない一言で関係に亀裂が入ることも、壊れるとわかっていて人の中に飛び込むことも恐ろしい。
他人を踏みつけて我を通せるわけでも、人が一目置く何かを持っている訳でもない。
これまで、舐められて隅に追いやられたり、いたたまれなくなって逃げ出したり、ろくなことが無かった。
人との関わりに破滅しかみいだせなくなった。

人と触れ合うことに、すっかり恐怖してしまった。
おかげで今の僕は、人とうまく関われない中年、すなわち怪物になってしまった。

そんな人間に残された数少ない自己主張の手段が文章で、僕がnoteに拙文を書き散らすのはそのためだった。
人と喋って満たされるなら、こんな回りくどいことはしない。

しかし、今回の気づきで、僕は文章にも、現実と同質の揺らぎを見いだしてしまった。
結局は文章でもなにかに脅えているじゃないか、と。

せめて文章くらいは怯えずに、肩の力を抜いて書きたい。
そのために、ひたすらに書くために、なにかやるべきことがあるんじゃないかと思わずにはいられない。
実際には、そんな特効薬は存在しないのだけれど、それでも望まずにはいられない。


夜中は世迷言を言いたくなるのが人の常だけれど、この記事もそんな他愛もない世迷言であることを切に願う。
明日の朝にはこの絶望が消え去っていることを願う。

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