DCD:不器用とは
認知機能の発達のアンバランス。に加えて発症しやすい筋肉の発達の不全、バランス感覚の未熟さ、手先の不器用さ。DCD。
DCDには主に粗大運動と微細運動と分けられる。
粗大運動というのはボールを投げたり走ったり、体をダイナミックに動かす動きのこと。微細運動というのは手先の細かい運動のこと。
夫は身体能力のわりにボールを投げたりと言った作業が苦手である。体も固い。私は体を動かすよりもむしろ、手先の細かな動きが苦手だ。
破壊神、と呼ばれていたことがある。手先の不器用さから、ありとあらゆるものを破壊して育ってきた。消しゴムをかければノートが破れるし、おもちゃを触れば壊してしまう。この辺のことは以前のエッセイにも書いた。
ちなみに上記の記事のお昼寝をしない、に関してはドーパミン濃度が覚醒と入眠の切り替えに重要らしい。
DCDについて調べていると、学童における不器用さの簡易検査の方法を考察したPDFを見かけたの夫に頼んで付き合ってもらった。指を順番にぱちぱちしたり肘をくるくるしたりするらしい。
「どや!けっこうできたと思う」「言っておくが君すでに結構な頻度で間違えているからな。薬指の感覚が異常に弱い」そういえば子供の頃から薬指が消失する感覚にたびたび襲われていた。というか不器用だったのでRPG、格闘、ゴルフ以外のゲームが致命的に下手だった。弟がマリオの一面で死にまくる私を見かねて100機UPしてくれたがそれすら使い果たして二面。
「じゃあ夫ちょっとやってみてよ」
「楽勝じゃんほれ」
「……」
なんやその細やかな動きは。夫は小さなころから微細な動きが得意だったらしい。物をばらしては組み立てたり、ミリ単位の折り鶴を素手で折ったりしていた。今でも私や子供が破壊したものを黙々と直している。
子供にも試しにやってみてもらった。ピアノを習っているせいか指先の動きはなめらかである。彼女の場合肩関節が異常にぎこちないのであった。体力測定のソフトボール投げの結果を思い出し、さもありなん。と思った。
私は指先の繊細な動きが苦手だ。道理でがさつ、おとこっぽい、女らしくない、乱暴、粗雑、悪みたいなありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられてきたわけだ。私は微細な運動機能の調整ができないために、力推しでなにもかもを解決することが多かった。解決できない時はどうなるのか? 道具を破壊してしまっていたのだ。夫には「リアルネカマ生活のすすめ」みたいなことを説かれたことすらある。
夫と暮らしてみて初めて「人間の初期機能に水平姿勢保持、三次元の認知による地形の把握、経時を含め四次元の空間把握能力が備わっているのか……私のインストーラ壊れていたのかな? 仕事してなかった?」と震えた。
私はそれらの機能を全て二次元で賄っていた。言うなれば人々が六十四ビットの計算能力を保持している中で私は一ビットの計算能力を駆使して三次元の現実を二次元的に落として処理し、かろうじで生きているのだ。低い計算能力を解凍圧縮の早さだけで補っている。それに気がついたのは物心を獲得してすぐだった。「頭の中で割と簡単に時間が消失する」みたいなことに愕然とし、段差から数回落ちて頭や腰を強打した結果「距離感がとれてない」ということに気がついた。三歳とか早くて二歳くらいの時だったと思う。私の生存はほとんど論理思考だけに依存して成立していた。
脳の一時記憶領域のバグ。不完全なメモリ、三次元認知の不和。知能のアンバランス。「これが周囲の人にばれたらやばいのでは?」「おそらく不備がばれたら処分されてしまうかもしれない」私@幼児は震えた。なんとか通常の人と同じように振る舞わなければ。
というわけで私は健常な人の振る舞いを観察しトレスするように励んだ。幸いしつこさというか、執念というか、繰り返しへの耐性、興味の広さによって私は一つずつ苦手をなくしていった。ボタンを嵌めること、蝶々結びをすること、鉛筆のキャップを適切な力加減で閉めること、は最後まで難しかった。
それでも奇異な、という範囲にはぎりぎりはみ出さない、少し不器用な子、やればできる。みたいな周囲の評価を得ることができた。写字はとにかく苦手だった。美術は線描の安定しなささから味がある、ヘタウマみたいな評価だったし彫刻も繊細な細工は出来なかった。深さの判定が出来ないためにムラができ、結果それも味。って感じである。ただ三次元から線を抽出することだけは得意だった。
前庭感覚の鈍麻があったのでバランス系の遊具を一歩間違えたら大けが、という遊び方で遊んでいた。感覚の鈍麻は噛み癖にもつながったし、噛み跡だらけの小一時の文具を見て祖母が「お父さんと同じねぇ」と言ったのを今でも覚えている。私の特性の多くは父とよく似ていた。
痛覚の鈍麻は自傷や抜毛にもつながった。噛み癖や足をバタバタさせる癖を学校の教室では規制されるので、代わりに抜毛が現れたのだと思う。
母の口癖は「普通にしたらできるでしょ」「普通にしなさい」だった。でも私は物ごころついたころから、自分が周囲の人が普通にしていたらできることが、そのままではできないことを知っていた。
私にとっては、普通の人のように振る舞うこと自体、不断の努力を要求される辛いタスクだ。
ところで体育の授業でダンスが必修になったらしい。やめてくれ。DCDの人々には拷問のような話ではないだろうか。私は自らのボディイメージが貧困で、すぐ人にぶつかるし自分の足を踏むしつまずくし、なんなら手を振って歩けば自分の体を殴り続けることになる。こんな人間にダンスなどさせたらどうなるか、考えただけでわかると思う。醜態。
球技とダンスと武道と陸上競技の選択にしてくれ。これらは必要な運動機能がそれぞればらけているので、得意な子が集まるといいと思う。マットとかバランスものの基本運動だけ全員にさせて高度な技の習得は希望者だけでやってくれないかな。ほんとに。
美術と習字も選択にしよう。それがいいよ。生まれ持った得手不得手舐めんな。
私の突然の「これやってみて」に付き合わされた夫は「これなんなの?」と不思議そうだったが「不器用さを客観的に測定するための学童用指標案」と言うとあー、と納得していた。
「やっと自分が人並み外れた不器用だということに気がついたの」
球技の苦手なお前に言われたくない。
「知ってたけどいざ通常からのへだたりを示されるとつらい」
「阿瀬さん人並み外れて不器用のくせに、人よりちょっと不器用みたいな顔しているのがムカつくよね」
「どう考えてもハンディ並みの不器用さを抱えて生きてきた努力を評価しろよ、水面下で必死なんだよ」
夫は嫌なやつだなと思った。どうも視覚と運動の感覚的統合がうまくいかないことが原因では? と思われているみたいなので発達障害の空気の読めなさって「視覚による運動機能の学習効率の悪さ」から「識字」に特化するなりなんなりして発生する副次的なものなのかもね。
そういえば視線の不安定さで乳児期にADHDを鑑別する研究もあったし、ドーパミン分泌の異常がADHDの時間感覚をゆがませるとか。だからADHD群では運動の正常な学習が阻害されるのかも。私も感覚的に、時系列がばらけていくあの混とんとした感じはよく味わっていたのでわかる。感覚的な正しさを体感できないからなお一層、論理とか方角とか、地球平面上にいる限り変わらない定義を求めてしまうんだよ。空気みたいな曖昧なものを食べていたら、自分の体がどこにあるのかさえ忘れてしまう。
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