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囚人のカルペディエム

その日を摘め(そのひをつめ、ラテン語: Carpe diemカルペ・ディエム)は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」「一日を摘め」などとも訳される。

Wikipedia「その日を摘め」

時は流れる。

あるべきものはあらざるものになり、
足るものは足らしめられるべきものになる。

凍える背中を抱いていた者がいなくなったとき、彼女の身体は夏のにおいを纏っていた。

彼女は駅前のフラワーショップに行けなくなった。思い出と恨み言が脳裏から剥がれなくなるからだ。

とくにカーネーションなどは、名前を聴くだけで心臓が止まりそうになる。

美しいだけの日々ではなかった。殴られたことはなかったが、その人のせいで地元に残らざるを得なくなったのは事実だった。

それでも今、カーネーションの赤色を見て泣きそうになるのは、恨みだけではないと心の奥底では思っているからだろう。

「頭では思い出せないような記憶があるんだろう」と思うことが、なんの意味があるのかは分からない。忌々しいとも思う。根っからの悪人ではない人を嫌いになるのは難しい。

いっそのこと記憶がなくなってしまったほうが、日常に溢れかえる過去の断片に悲しまないですむのに。

「今を生きろ」と皆が言う。ミュージシャンも詩人も教師も。過去に囚われてはならないと。未来のために今生きろと。

それしかないのは分かっている。どんなにそれを綺麗事だと反発しても、われわれが過去や未来に生きることはできない。

それでもどこか無理がある。囚人は過去の罪を忘却してはいけない。過去を背負って今を生きなければならない。けれど囚人のカルペディエムを、被害者は望むだろうか。

被害者も同じように、過去の被害から逃れることができない。一度裏切られたら、もう二度と信じられなくなるように。それでもカルペディエムを要求されるのだろうか。

カーネーションを見ても、なんとも思わないようにいつかなるのだろうか。過ぎ去った時間として、過去が事実に成り下がるのだろうか。

そうだといいが。

けれども彼女はこの一点だけが不満であった。今ごろ向こうでは心置きなく不倫しているのだろう、と。


2024年5月20日 薊詩乃

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