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天使が死んだ

雨上がり、天使が死んでいた。

羽をもがれた彼女──だと私が思ったのは、細くたおやかな身体によるせいだ──は、地方都市の国道で倒れていた。何台もの自家用車や軽トラックが、彼女を避けるように弧を描いて走る。その度にバシャリと彼女は濡れていく。私はいたたまれなくなって、彼女に駆け寄り、私の傘を差してあげた。それくらいしかできなかった。
彼女の白く透明な羽衣は、水たまりのぬかるみに沈んで醜く汚れていた。不健康そうな腕にぺったりと引っ付いていて、彼女の肌を泥の色に塗っているのである。

私は“可哀想”と思った。しかし彼女を天に還そうにも、彼女の羽はゴミ捨て場のビニール傘のようになっていたので、それは叶わないのだとすぐに推し量ることができた。

私はすぐに彼女を抱え上げた。しかし彼女には体温があった。彼女は死んでいなかったのだ。私は彼女に声を掛けた。大丈夫ですか、良かった、生きていて良かった──

途端、何かが私を跳ね飛ばした。クラクションが鳴らし、私を避けていく車。彼女を濡らしていく車。

「触らないで」

ごめんなさい、でもそんなつもりは無かったんだ、と私は弁解した。

「心配することと、わたしのカラダを触ることに、なんの関係があると言うの!」

存外彼女は元気そうだった。安心したが、彼女の言動に気圧されてしまった私もいた。

──ごめんなさい、車に轢かれてしまうと思って。助けたかったんですよ。

「そんなのは後からいくらでもそれらしい理由をつけることができるわ。そして、どんな理由があっても、わたしのカラダを触ることは許されないわ。仮に貴方がわたしの経験について知らないとしてもね」

経験?
私は訊き返した。

「ええ、経験。わたしにはわたしなりの生活があって、影があったのよ。貴方がこの羽を見て、それでもわたしに何があったのか想像の端緒も掴めないというのなら、それはもはや頭がおかしいわ。
「見なさい、この真っ黒に汚れてしまった、背中についていたものを! これがいくらわたしを傷つけて、わたしにとって重石になっていたがわからないの?」

それから彼女は、突然に、演説のようにのたまった。帝国劇場に立つ舞台俳優のような声量で、大演説をのたまったのだ。

「もうわたしは我慢がならないからこんなことになったのよ! ほら、この黒く汚れて散り散りになった翼を見てわからない? わたしは辱められたの! 人間という穢らわしい種族によってわたしは天使である尊厳を歪められた!
「今まではずっと我慢していました。わたしは天使ですから、人間に頼まれれば、神の意志を無償で届けに行きましたし、多少無理なお願いだって叶えさせてあげました。わたしのあの可愛かった翼は、そういう歴史の象徴であったはず。
「けれども見なさいよ、この真っ黒に汚れてしまったものを! これは人間のせいなの。わたしにおぞましい感情を向けてきた人間のせい!
「その人間の名前は──と言うのですよ。ほら、知っている人もいるでしょう? よくこの道路を通っていましたもの! それから──という人間は、わたしのその傷を知っていて、『じゃあ仲直りしよう』と言って、悪意だと気づかない最大の悪意でもって私とその人間を邂逅させようとした! 私がどれだけ苦しかったか!
「わたしは天使であるというだけで、わたしは飛べるというだけで、わたしは神に遣わされるというだけで、悪いことは何もしていないのに。悪いのは──と──の悪意。そして、見て見ぬふりする貴方のような人間衆に他ならないわ。
「わたしはもう天使であることを辞めた……いえ、辞めさせられた。人間のせいで。わたしはわたしにできることをただやって、人間のために尽くしただけ。でもわたしのあの儚く美しい翼は、もう二度と帰ってこないのです!」

人々は素通りしたり、スマートフォンを構えたり、立ち止まって何もせず眺めたりと、彼女に対して様々な反応を見せていた。
人が集まってきた頃には、もう私はどうもその場にいるのがつらくて、彼女の元を離れて遠巻きに眺めているだけだったので、却って人々の様子を見ることができたのだ。

人々は黙ってそれを聞いていた。
しかし人々は訝しんだ。
彼女が“天使”だったからだ。

──君は天使だから、羽があるのは当たり前じゃないか。そりゃ、君が羽を煩わしく思うのは勝手だが、その羽のお陰で君は空を飛べていたんだろう? 恩恵を受けるだけ受けていて、今更それはないんじゃないか?

──君は天使だから、地上の人間に羨まれて当たり前じゃないか。そりゃ、好みでない者にもそんな視線を向けられるのを嫌だと思うのは勝手だが、それは贅沢な悩みというやつだよ。君は望まずに天使に生まれたかもしれないが、それは人間だって同じなんじゃないか?

そういう声がボソボソ漏れ出ることすらあった。

私は“それは違う”と思ったが、同時に、彼女に対する違和感も浮き彫りになった。

──なんで、こんな場所でそれを言っているのですか?

「どういう意味」

私は思いの外大きな声で言ってしまっていたのだろうか。それとも彼女はそれと関係なしに音を拾ってしまったのだろうか。

──みんなあなたの話を聞いていますが、それは、あなたを心配しているからではないのですよ?

「は?」

──あなたの話がどこまで転がっていくかが気になっているだけなのです。

「人間はみんな非情なのね!」

──「非情」ですか。でもあなたは「可哀想」と思われたくないんですよね? そう思って手を差し伸べることすら加害だと思っているんじやないんですか?

「ひどい……」

──そもそもあなた、そんな証拠なり何なりを持っているのなら、こんなところで叫んでいないで、神様のところへ行って、早くその人達を裁いてもらったらどうですか?

──そうそう、「可哀想」だと思われたくないなら、尚更、どうしてこんな所で叫んでいるのですか? 事実を世間に知らせたいだけなら、淡々と事実を述べてさえいればいいのに。それは、あなたがやはりあなたに属性を付けたいからだと思うのです。

──あなたは、“可哀想な天使”でありたかった。あなたの考えには啓蒙も啓発もない。あなたは呪詛を撒き散らしたかっただけだったと、やっぱり思うのです。そう思っていないとしても、そう見えてしまうのです・・・・・・・・・・・

──なんだあの男、そこまで言わなくても。

──まぁいいじゃん、おもろ。

天使は何も言わなかった。

降り止んでいた雨が再び降り始めた。
汚れた翼がイカロスのように燃え始めた。その理由は定かではなかった。けれど私が見る彼女の表情から察するに、それは太陽の意志ではなく、彼女自身の決断のように思えた。
私は思った。やっぱりあの翼は、彼女自身が破いたのだと。

雨の中、天使が死んだ。

私は気分が悪くなった。


2023年12月12日 薊詩乃

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