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思考実験は終わらない

るるいえのはこにわ 断章『芸術家ノア=ミ・ザによるいくつかの思考実験』が幕を下ろしました。
ご来場いただきました皆様、誠にありがとうございました。

思考実験をする意味

この社会は急速に変化しつつある。
されども進化はしていない。
生物の進化というものは、どちらかといえばそういうものに近いのかもしれないが。

進化しないのは、われわれが平和に生きているからだ。されど戦争をしろだなんて言うわけがない。そして平和の対極にあるのは戦争だけではないはずだ。
平和の中にいながらも不和を想定することができるのが思考実験でもある。

思考実験とは、現実を考えるためにある。
《トロッコ問題》も《メアリーの部屋》も《テセウスの船》も。SFでもファンタジーでもない、現実として問題となっている事象について問題を形式化して捉え直す仕組みが思考実験なのだ。

そしてここでいう「現実」とは、「現実で起こっていること」だけでなく、「現実で起こりうること」も意味する。
蒙昧な世間は、「現実で起こりうること」をフィクションだと思い込む悪癖でもあるのだろうか。想定される問題を指摘したとき、「そんなこと起こってませんよ」「そんなの言ってるのあんただけですよ」と視野狭窄な現実主義者に成り果ててしまう。

本作《紅茶はいかが》で問われていた性的同意についての問題などは、それが顕著だった。
「同意とは何か」が法や条文に規定されていないからこそ、あらゆる問題が起こることは想定できるはずなのに、それから目を逸らす衆愚のなんと多いことか。

しかしそれは、現実に被害者となってしまったその人を救おうとする気持ちの表れでもあるのだろう。勿論その心意気は大切だ。

最も大事なことは、問題はそれぞれ存在するということだ。

被害者の救済と、冤罪の防止は、同時に存在していなければならない。

どちらかを達成すれば良いというものではない。
被害に遭うかもしれない恐怖と、濡れ衣を着せられるかもしれないという恐怖は、両方救わなければならない。

だがこの社会は最悪だ。

この最悪な社会について

社会は歪である。

本当に腹立たしく、愚かしいことであるが、この世界には差別や虐殺がある。そしてそれは暗に容認されている。

差別や虐殺をなくそう、と世界は語りながら、そのとき、とある属性にしか目を向けていないように思われる。そして同時に、その綺麗事とは裏腹に、世界はその属性に対して、暗黙の抑圧ともいうべき不平等を強いているのだ。

3/8は「国際女性デー」であった。
女性のempowermentを達成することは、男性をdisempowermentをもたらすことではないはずだ。もしそうなら、「国際女性デー」が「国際男性デー」に変わるだけである。

「国際男性デー」はある。それは毎日だ。

という文言をインターネットで見たことがある。
そうであるなら、「国際男性デー」を新たに制定することは無いかもしれないし、将来的にも制定すべきではないだろう。同時に、毎日が「国際女性デー」であるようにするということが、社会が為すべき転換なのだ。

男女や性の問題に限らない。
人権を尊重し、社会の中であらゆる人権を人権足らしめなくてはならないのに、社会は、とある属性のみを救おうとしている。その属性にすは入れない属性もある。

今作《トロッコ問題》の「一人乗りのトロッコ」とは、そういうことである。本当の弱者は、社会によって見捨てられていく。

区別だと思われている差別がある。
努力不足という言葉であしらわれる孤独がある。

ノアが描きたかったのは、その歪さである。
とある属性のみを救おうとする行為が、他の属性を奴隷化することであってはならない。

だからこそノアは、自らを嫌悪しているのだ。

この想いが伝わっていなかったとしたら、
それは薊詩乃の技量不足である。

思考実験を続ける・哲学の価値

3S政策という言葉をご存知だろうか。

Screen(ここでは映画の意味)、Sports、Sex(Speed, クルマの場合もある)に大衆の感心を寄せ、政治から大衆の眼を逸らさせる政策のことである。

2024の世界も、だいたいそんな様相である。「Screen」が銀幕から小さなその機械に変わったぐらいだろう。

考えるという行為には、精神的コストがかかる。考えないほうが圧倒的に楽だ。だらだらと手元のScreenを眺めているほうが生きやすい。

だがそれは結果的に生きにくくなるのだ。
社会をより良くしようとするとき、それは単なる政権批判では成し得ない。「なぜ」の土壌を造らなくてはならない。

「なぜ」それを批判するのか。
「なぜ」それをすべきなのか。
「なぜ」私はこう考えるのか。
「なぜ」私はこうしたいのか。

それを育むのは他でもない哲学である。
そしてそれは負荷がかかる。その負荷に耐えなくてはならない。暴力的な負荷だと思うかもしれない。けれど、その暴力はもっとも野蛮で唾棄すべき暴力を喰らわないためにあるように考えている。

ノアの考えに共感しなくて構わない。
ノアの考えに同調したって構わない。

大切なのは、「なぜ」そう考えたかなのだ。

思考実験を続けていこう。
私やノア=ミ・ザもそうするだろう。
そして、新たに芸術を始めるのだ。


2024年3月12日 薊詩乃





まだ足りない。
思考が足りない。

まだ足りない。
まだ足りない。

まだ足りない。
呪い足りない。

まだ足りない。
まだ足りない。

本当に書きたいものはこれだったのか?
お行儀よく世界を皮肉るのが、ノア、
君の本当の芸術だったのか?

書きたいことと、
書かなければならないこと、
その間に流れる川は何だろうか?

まだ足りない。
まだ足りない。

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