幻想

『ヨミチとガラス子』


いつもの朝が始まるはずだった。けど、その日は違った。玄関のチャイムが鳴ったのだ。なぜだか少し、嫌な予感がした。

「ヨミチー? お母さん今火を使ってるからお父さんに出てもらって」

言われて2階を見たものの、書斎に籠ったきりのお父さんが出てくる気配はない。きっと今日も作品がうまく書けずにいるのだろうと思った。

「いいよ、ボクが出るから」
「そう、じゃあおねがーい」

サラダにウィンナーに目玉焼き、そして納豆。いつものエプロンでいつものメニューを作っているお母さんの細い首筋には丈夫そうなロープの輪がかけられていて、その余った先が床の上で蛇みたいにずるずると動き回っていた。ときどき自分の足で踏んだり、どこかに引っかけたりしてしまうのか「ゲグッ」という低い蛙のような声が漏れてくる。

「お母さん、そのロープ――」
「ヨミチ、今日はお前の好きなジャガイモ とワカメのお味噌汁だからね」
「……うん、ありがとう」

お母さんの表情は口元しか見えなかったけれど、すごく嬉しそうだった。せっかくの楽しい朝食の雰囲気を壊したくなくて、ボクはロープのことは胸にしまって玄関に向かった。

ノブに手をかけた瞬間、ガチャリと音がしてドアが開いた。

「こんにちは。わたしはガラス子」

ドキっとした。はじめ人形がしゃべっているのかと思った。まるでガラス細工みたいに透き通ったなめらかな肌、肩先で綺麗に切り揃えられた銀色の髪、淡い水色のセーラ服からすらりと伸びた足はどこかのモデルさんのようで、その先は吸い込まれそうなほど深い空色の長靴にすっぽりとおさまっていた。

「ガ、ガラス子……さん?」

どもりながらボクが聞き返すと、彼女は右目にした眼帯を軽くおさえながら玄関の四隅を見渡し、「お邪魔するわね」と言って土足で家に上がりこんできた。

「え!? あ、ちょ、ちょっと待って!」

慌ててあとを追いながらボクは憂鬱になっていた。お父さんが資料整理のために呼ぶって言っていたアルバイトさんが、たぶんあの女子高生なんだと思ったから。それでまた、お母さんの機嫌が悪くなるのが悲しかった。

リビングにいた彼女はキッチンとダイニングをざっと見渡すと「お父さんは2階ね」と言ってまた勝手に階段を登っていった。

お母さんは完全にガラス子さんを無視しているようだった。朝食はレタスサラダだったはずなのにキャベツの千切りがまな板の上で山盛りになっている。トントンと包丁を刻む音が少しずつ早くなり、キャベツの破片があちこちに飛び散っていく。

ボクは急いで彼女に帰ってもらわなきゃと思い、勢いよく階段を駆け上がった。書斎のドアの前に彼女――ガラス子さんがいた。
「あ、あの、今日は帰って――」
「ここが"起点"ね」

ガラス子さんのどこか無機質な声が頭の中に響いた。でも何のことを言っているのかはよくわからなかった。ただ、ガラス子さんがドアの前に一歩踏み出した時、ボクは思わず叫んでいた。

「そのドアは開きません! お父さんは今忙しいんです! 面接なら別の日に――」

ギィ……ギィ……

どこから取り出したのか、ガラス子さんの胸の前にいつのまにか透明なガラスの匣が抱かれていた。大小の透明な歯車が複雑にからみあった不思議な装置が透けて見える。彼女はその匣の底についているゼンマイを巻いているようだった。

「何を……してるんですか?」
「私を呼んだのは君でしょ」
「え?」

彼女がゼンマイから手を離すとその透明な匣――オルゴールから不思議な音色が溢れだした。それは、ボクが今まで一度も聞いたことがないメロディだった。なのになんだか無性に懐かしくて、悲しくて、優しくて、心臓をぎゅっとつかまれたような気がした――瞬間、ゴオオオオッ! っと強い風が吹いて、気がつくと書斎のドアが音もなく開いていた。

「行きましょう」
「……い……嫌だ……!」

自分で自分の言葉に驚く。
ガラス子さんは右目の眼帯の位置を少し直し、その手をボクにさしのべた。

「一緒に観てあげる」
「……ボ、ボクは……ここでいい……ここがいいんだ……!」

あとずさるボクの手をガラス子さんが握った。
「っ!?」
その手ははっとするほど冷たくて、一瞬背中の芯がぞくぞくっと震えた。けれどそれはけしてイヤじゃなく、やわらかな雪に包まれているような不思議なあたたかさがあった。

ガラス子さんのその不思議な手に導かれるようにボクらはお父さんの書斎に入っていった。

「ヨミチ、よく見なさい。これが人間のクズの顔よ」

お母さんが本気で怒ってるときの声がした。静かで抑揚もないのに包丁みたいに胸の奥までズブズブ突き刺さってくる。

お父さんはボクの方を向いて「平気だよ」という顔して笑った。
ボクは二人の間で、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
二人はガラス張りの大きな本棚の前で対峙していた。

「とにかく今インプットして、新しい物語の構想を――」
「遅いのよ!」

イライラが限界に達したのか、ふいにお母さんの声が鋭く甲高いものになった。

「あなたなんかとっくに世の中に消費されてるの! もう誰からも必要とされてないの! それがわからない? くだらないインプットしてる暇があったらハローワークでも通って、トラックの運転手でもタクシーの運転手にでもなってきて!」
「僕は……自分を信じてる」
「ああ……駄目。あなたのその顔見てると殺したくなる」

やめてよ……
喧嘩しないでよ……。

顔の筋肉が磁石で引っ張られているみたいに、あちこちでたらめにピクピクしだした。

「そうそう、このゴミ屑みたいな本でも売れば少しは生活費の足しになるんじゃないの?」

腕組みしたお母さんがアゴで書棚を指し示しながら言った。

「この本は僕の宝だ……これで僕たちは今まで食べてきたんだ……」

いつも穏やかで優しいお父さんの声がかすかに震えていた。

「今食べられてないことが問題だって言ってるの! あなたが嫌ならいない間に売っておくから。向こうから来てくれるサービスもあるみたいだし」
「この本を売ったら……た、ただじゃおかないぞ!」

お父さんはしぼりだすような声でそう言った。
本はお父さんにとって命みたいなものだって言っていた。ボクもお父さんから貸してもらった本が好きで好きでたまらなかった。面白くて、のめり込んで、ずっと本の世界にいたいくらいに。だから、お父さんが本気で怒る気持ちもわかる気がした。

「は? よく言うわね。どうただじゃおかないのよ?」
「……」
「あのね、あなたはもう、いわゆる“オワコン”ってヤツなの。わかる? まあ、これももう死語らしいけど、今のあなたにはおあつらえ向きね。もういい加減何の役にも立たない夢にしがみつくのやめて、父親なら父親らしく家族養うこと考えなさいよ」

――ガシャン!

ガラス張りの書棚を思いきり殴ったお父さんの拳が血だらけになって震えていた。

「なによ……やれるもんならやってみなさいよ。ヨミチに自転車のひとつも買ってあげられないくせに」

お父さんの肩がびくっと反応した。

「あれ? あ……忘れてた。そっか、あなたまだ知らないんだっけ? この子がいじめられてるの」
「!?」

お母さん……やめてよ……ボク自転車なんかいらないから……みんなで朝ごはん……食べようよ……。

泣きたくなかった。お父さんみたいに平気だよって顔で笑いたかった。なのに勝手に涙がポロポロこぼれてきて止めることができなかった。

「そりゃそうでしょう。今どき小遣いもないんじゃ、まともな友達づきあいもできないし」

お父さんの顔がみるみる歪んで、丸まっていく背中の向こうから嗚咽が漏れ聞こえてくる。

ボクは大丈夫。
大丈夫だから……泣かないでよお父さん。

「……もうゲームオーバーよ。今日、市役所と保健所から一人ずつ担当者が来るの。ネグレクトかどうか見に来てくれるんだって。あなたがどんな言い訳するのか今から楽しみだわ」
「ぼ、僕はバイトもしてるし……足りない生活費は……借金してしまってるけど、君たちを餓えさせてはいない」
「それじゃあ未来がないって言ってるの! 毎月毎月借金が増えていくばっかりじゃない! ヨミチにだってこれからどんどんお金がかかっていくのよ? いったいこの先どうやって生活していくつもりなの? このままでいいの?」

もういい……もういいからやめてよ……。

「僕は自分を信じてる……必ずいい作品を書いてカムバックしてみせる」
「ああ……信じてる信じてる信じてるって! ふざけないで! あなたの自己満の夢にいつまであたしらを巻き込むつもり!!」
「ち、違う! 新しい職種で働いても僕は絶対続かないし、じ、自分がやってきた道に戻って稼いだほうが借金だって早く――」
「あなたの言ってることは全部詭弁なのよ! 新しい仕事だって続くかどうかなんてやってみなきゃわからないじゃない! いい? あなたはね、ただやりたいことしかやりたくないだけなの! 正当化しないでよ!!」

お父さんは一度だけ涙を指でぬぐって、すっとお母さんに向き合った。

「なに?」
「……僕は君が病気で働けなくなったとき助けたけれど、君は僕がスランプで苦しんでる時に敵にしかならないんだな」
「は……? ちょっと……あたしのせい? あたしのせいにしてるの? 頭がおかしいんじゃないの?」
「そうじゃない。でも……野球の選手でもサッカーの選手でも、みんな苦しい時には妻が支えて乗り越えているから」
「は! あなたと一流選手を一緒にしないでよ!」
「一流かどうかは関係ない」
「はいはい。わかりました。もう屁理屈はいいから、一回死んで保険金でも稼いできてよ」
「……そんなにカネカネって言うなら、君もまた働けばよかっただろ?」

――キィーーーン。
書斎の中の空気が一瞬で凍りついたような気がした。

「き、君がパニック障害持ちで、躁鬱病で働けなくなった時、僕は結婚して、君を看病しながら働いて支え続けた。でも君は……いつまでたっても僕を支えようとはしてくれない」

駄目だよ、お父さん……
それ以上言ったら、お母さんが……お母さんが壊れちゃう。どうして……? なんでこんなのを見なきゃいけないの?

ガラス子さんがボクの手をぎゅっと握りしめた。
「辛抱して。少しだけ巻き戻してあげないと、あなたの望みは叶えられない」
そう言ってガラス子さんは、またまっすぐにお父さんとお母さんを見据えなおした。

――ボクが望んでる?
そんなずない! ボクはこんなの見たくないし、一刻も早くこの場から逃げ出したい! そうしないと、そうしないと――

「君はすっかり忘れているみたいだが、産後鬱の時だって僕は助けたはずだ」

お母さんの眉間に寄った皺がどんどん深くなって、谷底みたいに黒々とした影ができていた。目もつり上がって、充血した瞳が燃えるようにギラギラと輝いている。どこかで見たことがある顔だった。寺に飾ってある般若のような……いいや、違う――鬼だ! 昔お父さんと観た古い日本映画の鬼女の顔にそっくりだ!

「ヨミチなら学童だってあるし、僕だっているんだから、君が働こうと思えばいつだって働け――」
「ひぎぃぁゅぁーーーっ!」

お母さんが獣のような叫び声をあげると、その手の中にすらりとした青い魚のお腹みたいにきらめく銀色の光があった――包丁!?
どこに隠し持っていたのか、お母さんは握りしめたその包丁を突き出すようにしてお父さんに突進した。

――ガジュッ!

硬いものに当たってそれを貫いたような音が“ボク”の体の中に響き渡った。

気がつくと、ボクは二人の間に飛び込んでいた。
喉のあたりに鈍い痛みが走り、それが引き抜かれると、生ぬるい液体が鼓動に合わせてビュ! ビュ! っと噴き出し、辺りを紅く染めた。お父さんの顔も。お母さんの顔も。ボクの顔も……

「ヨ……ヨミチ?」

目の前に鬼の形相をしたお母さんの顔があった。
むき出しになって震えていた瞳にどんどんと涙が溜まっていく。なぜか、それをガラス子さんの隣で観ているボクがいた。

「お、お母さん……大丈夫……だからね。ボクが……大きくなったら……たっくさん……働いて……お母さんとお父さん……食べさせてあげるから……だから……安心し……て……」

そう言ってボクは床に倒れた。

「ヨミチッ!」
お父さんが駆け寄ってボクを抱きかかえた。
「い、いま救急車を呼んでやるからな! お母さん! きゅ、救急車! 早く!」
「あぅ、ああ……ヨミチ……あぅぅ……ヨミ……ヨミチ……あぅ……」

目の焦点が合わなくなったお母さんは包丁を持ったまま、よろよろと書斎をさまよっている。

お父さんの手の中でその“ボク”の意識は静かに閉じていった。

「ヨ、ヨミチ……? お、おい! そんな……しっかりろヨミチ! ヨミチッ! ヨミチィ……」

髪も服も血でべったりになったボクの体に顔を埋めるようにしてお父さんが泣いた。肩を震わせて泣いているそのお父さんの背後に、いつのまにかお母さんがたたずんでいた。目の下にどす黒いくまができていて、お父さんを見下ろすその顔はまるで幽鬼のようだった。

「……おまえの……せいだ……」
「……?」

お母さん……
――やめて!!
止めようと走り出そうとしたボクの手をガラス子さんがつかんだ。
「無駄よ。起きたことは変えられない」
でも――!

お父さんが振り返るより早く、お母さんの包丁がお父さんの背中を貫いた。
何度も。何度も。

「――ぅぐ! っぅ! ッ! ぅっ!」

刺されるたびに声にならない叫び声があがった。

ああ……お父さん……

やがてボクを抱きかかえていた手から力が無くなり、お父さんはごろっと仰向けに転がった。その口からゴブッという音と一緒に大量の赤黒い血があふれ出てきた。

お母さんはそれで満足したのか、血で真っ赤に染まった包丁を投げ捨てて、そっちのボクに「待っててね」と言ってニッコリ笑って書斎を出て行った。

もう虫の息だったはずのお父さんが咳こんで、息をぜろぜろさせながら震える手で胸ポケットからメモ帳とペンを取り出しはじめた。力を振り絞るようにして寝返りをうつと、そのまま床に這いつくばりながら何かを書き始めた。そしてすぐに力尽きたように動かなくなった。目じりから赤い筋がこぼれていた。

メモは血で汚れて見えにくかったし、うまく力が入らないせいか字もヨレヨレだったけれど、“今のボク”にはそれが読めた。

ヨミチ マフユ
ごめん じてんしゃ
とうさん ユメ

――ガコン!
「ゲグッ」
階下で椅子が転がる音して、すぐに聞き覚えのある低い蛙のような声が漏れ聞こえてきた。

ガラス子さんと書斎を出ると二階の階段の手すりからロープを垂らしてお母さんが首を吊っていた。眼は左右のあらぬ方を向いて笑っているようだったけれど、目元からは血の涙が流れ続けていた。

「……“ここ”ね。この瞬間からずっと止まっていたのね」

ガラス子さんがつぶやくように言った。

「……ボ、ボクは家族3人で楽しい朝食が食べれたら、それで……それだけでよかったんだ。それが永遠に続くならそれでもいい。なのになんで――」
「本当のあなたはそう思ってなかったから」
「……?」
「人はいつまでも“冷たい棺”にいちゃいけないわ」
「で、でも……」

ボクが喰い下がろうとしたときガラス子さんは右目の眼帯をはずした。そこには綺麗なガラス玉のような青い眼があった。
「だから、わたしを呼んだんでしょ」
彼女はそれを取り外してボクの顔を見つめた。
「あ」

ビュウっと冷たい風が吹いてボクはその眼の奥に吸い込まれそうになった。どこまでも広がる暗闇に見えた。のぞきこんでしまったら二度と戻れないような果てしのない深淵が……ん? 違う! これは……宇宙!? 流れては広がり、集まっては散り、不思議なリズムを奏でるように刻一刻と変化していく無限の宇宙――そこには、いのちの瞬きそのものが満ちているようだった。

「あなたたちはただ幸せになりたかっただけ。誰も悪くない。このわたしが全部みとどけたわ」

「あ……ああぁ…………」

全身から力が抜けていくような気がした。あったかい涙が自然に流れて頬をつたい落ちていく。そうか、ボクがずっと“ここ”にみんなを閉じ込めてたんだね。……でも、いつかは変わらなきゃいけなかったんだ。ボクらも流れて……還らなきゃいけない……だから――

「あなたたちの全てを……わたしが赦す」

――パリン!
氷結していた何かが砕け散った音がして家全体がぶるぶると震え出す。瞬間――ゴオオオオオオ! っという轟音とともに突風が渦を巻いた。お母さんとお父さんとボクの血の涙が綺麗に吸い上げられて、ガラス子さんの眼の奥の暗い宇宙に注ぎ込まれていくのが見えた。

「(……ありがとう……ガラス子さん……)」

ガラス子が義眼をはめ直し、眼帯の位置を元に戻すと、完全な静寂が家の中に舞い降りていた。

玄関を出てドアを閉めると、木造二階の平屋だったはずの家は氷がとけるようにすっと消えてなくなった。彼らが住んでいた家はずいぶん前に取り壊され、空き地になっていた土地に建っていた。

――わたしの名はガラス子。
凍てつく時を揺り動かし、宇宙(そら)へと還す者。

水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。