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シュクメ瑠璃光寺

シュクメルリというジョージア料理があると聞いた。↓

早い話が大蒜味のシチュー?という理解でいいのか。
松屋で人気のメニューとか?
ということで似た物を作りながら、山口の寺院とそれに大きく関わった氏族を妄想した記録。


材料

薩摩芋  2個
玉葱   1/4
大蒜   2欠け
シメジ  1/2房
生姜   半欠け
高野豆腐 4切れ
胡椒   少々
豆乳   500ml
塩    大匙1
ローレル 1枚
片栗粉  大匙2

本当は鶏肉を使うらしいけれど、私は肉食を避けているので高野豆腐使用。

県庁所在地と言えば大概は県一番の都市ですが、山口県山口市は静かで落ち着いた歴史を感じる町。福岡に住んでいた頃、何度か訪れました。
ランドマーク的な建物が瑠璃光寺の五重塔。
瑠璃光寺を始め、歴史を感じさせる建物も多く、西の京とも言われた山口。その町を作ったのが大内氏。
武家や公家の名家は源平藤橘のどれかを本姓とするものですが、大内氏は毛色が異なる。百済の王子、琳聖太子の子孫と自称。
周防国(山口県)を拠点とする大内家第二十五代が大内義弘。瑠璃光寺の五重塔は義弘供養のために弟が建立。


薩摩芋を茹でる。

大内義弘が生きたのは南北朝時代。父の弘世は南朝方だったが九州探題として今川貞世が下向してくると、それに従って消極的に北朝に付く。
父とは異なり、義弘は積極的に貞世に従い、九州の南朝方を撃破。
やがて弟、満弘との間に家督争い。父や多くの家臣が弟を推す。
積極的に北朝に付いた義弘を危険視した父の意向が働いたのかもしれない。
跡目争いに思わぬ味方が出現。
室町幕府第三代将軍、足利義満。


大蒜と生姜を摺り下ろす。

室町将軍家は権威や権力基盤が弱かった。これは義満の祖父、尊氏のせい。
足利尊氏は無欲な人で、戦に勝って領土が増えても功績があった者に惜しげもなく呉れていた。その結果、大名達が力を付け過ぎて下剋上の恐れ。
これを改善するために義満は将軍直属の奉公衆を増やしたり、力を付け過ぎた大名を討つ方策。
大内家の跡目争いに介入したのも、将軍の権威増強政策の一環。
将軍の鶴の一声で義弘は大内家の家督相続。
義満も大内義弘という強力な大名を傘下に収める。ここから主従は蜜月。


水で戻した高野豆腐を四等分。玉葱を細切り。

義満が厳島神社参拝に下向すると、義弘は接待し随行。義満が都に戻る時にも付いて行き、以後は在京することが多くなり、義満に誠心誠意仕える。
つまり義満の大名の勢力削減計画に積極的に寄与。
日本は66ヵ国、その内11ヵ国の守護を兼ねていたことから六分の一殿と呼ばれていた山名氏を内紛に追い込んで分裂させた明徳の乱(1391)にも義弘は出陣。
功績を認められて、山名氏の旧領だった和泉と紀伊の守護職を与えられる。これにて大内家は六ヵ国の守護に。何やら危険なニオイがしてきました。


大蒜、生姜、玉葱を炒める。

応永二年(1395)に義満が出家すると義弘もそれに従って出家。
その二年後、義満は北山第の建造を開始。現在は金閣がある鹿苑寺となっている場所。
その夫役を諸大名に命じる。
義弘はこれを拒否。
「武士は弓矢を以て奉公する者」というのが理由。
大工の真似など出来ないということ。
これから主従の間に亀裂が入り始める。


高野豆腐を投入。

応永四年(1397)の暮れ、九州の少弐貞頼征伐を義満に命じられた義弘は弟二人に五千の兵を預けて出陣させるが弟の満弘が討ち死に。しかし幕府からの恩賞はなし。しかも義満が少弐氏をけしかけていたという噂。
弔い合戦とばかりに翌年、義弘自らが九州出陣。少弐氏を討つ。
この後、義満から出された再三にわたる上洛命令を義弘は無視。義満の手口を見ていた義弘は行けば殺されると考えたのでしょう。
相互不信は深まるばかり。


薩摩芋と小房に分けたシメジ投入。

少し遡りますが、康暦元年(1379)に義弘は高麗からの依頼で倭寇退治に出兵。それが機縁となり、高麗滅亡後の李氏朝鮮と通交つまり直接貿易。
大内家の本拠、周防や長門は朝鮮に近いだけではなく百済王子の末裔という触れ込みがモノを言った?貿易は儲かる。ということで大内家は財力も蓄える。六ヵ国の守護という権力に加えて財力。
義満が危険視する力を持ち過ぎた大名という位置に来た。


豆乳とローレルを投入して煮る。

義満の圧迫に耐え兼ねた義弘はついに謀反。
応永六年(1399)に軍勢を率いて領国である和泉に上陸。
これが応永の乱の始まり。
幕府の権力基盤が弱いことを知っていた義弘は反幕府勢力に呼び掛ける。
九州探題を解任された今川貞世、山名氏の残党、旧南朝勢力、中でも頼りにしたのが鎌倉公方の足利満兼。鎌倉は武家にとって重要な地ということで足利氏は一族を関東統治のために派遣していた。それが鎌倉公方。
大内軍は堺に城を築いて籠城。


煮えてきたら水溶き片栗粉でとろみ。

皮肉にも義弘も関与した将軍家の増強により、義弘が糾合した反幕府勢力は各個撃破されていく。もっとも当てにしていた鎌倉公方の動きは遅々としたもの。これは関東管領、上杉憲貞の反対があったため。
義弘が率いていた兵は三千又は五千。鎌倉からの援軍がなければ、三万を超す幕府軍には独力では抗し切れない。
援軍が来ない籠城戦は勝ち目がない。結局、大内義弘は討ち死に。
鎌倉の援軍が間に合っていれば、足利満兼が四代将軍となり、義弘が管領に就任して歴史が変わっていたかも?


シュクメ瑠璃光寺

大蒜の風味がガツンと利く仕上がり。
それを吸い込んだ高野豆腐もよい。調味料は塩と胡椒のみですが、それが薩摩芋の甘さを引き出す。
薩摩芋とシメジから食物繊維。高野豆腐からタンパク質、大蒜のアリシンの食欲増進効果で食が進む。

堺に出陣する前、義弘は自分の葬儀を行い、弟の盛見に本国をしっかりと守るように告げていた。元より死を覚悟しての反乱。
跡を継いだ盛見は兄の供養として五重塔の建立を始める。
完成したのは盛見の死後。
義弘は塔の下に眠っている。
香積寺というのが最初の名前でしたが、大内家滅亡後に領主となった毛利家はその寺を移転させ、毛利家の菩提寺の一つを跡地に移転させた。それが現在の瑠璃光寺。
五重塔もその時に取り壊しの危機。しかし地元住民の反対が強く、そのまま残されて現在は国宝に指定。優美な姿と大内家の栄華を伝えている。
山口、久し振りに行ってみたくなったと妄想しながら、シュクメ瑠璃光寺をご馳走様でした。

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