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大御所スペシャル

人の世は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
東照神君遺訓の一節。つまり徳川家康が遺した言葉とされていますが、実際には誰かが家康に仮託して作った人生訓かもしれません。それでも、その言葉は徳川家康の人生をよく表現。
人間五十年という時代に73歳という長寿。しかし苦難の連続で、正にどうすべきかを常に考えねばならない人生でした。
今回はいつものダジャレではなく、原点に返って、徳川家康に所縁ある料理を自分なりにアレンジして作ってみます。
炊飯している間にまずは、家康の出身地、三河岡崎の八丁味噌を使い、汁物。


材料

八丁味噌 適量
炒り子  適量
人参   1/4
油揚げ  適量

家康が生まれたのは岡崎城主である松平家。祖父の清康は傑物だったらしいのですが、家臣によって殺害。守山崩れという事件。戦場で馬が狂奔したのを、自分が殺されると勘違いした阿部正豊により殺されたといいます。
父の広忠は強力な後ろ盾が必要ということから、駿河の今川家の傘下に入ることに。そのために嫡男の竹千代を駿府へ送る。つまり人質ということになるかと思いますが、今川家の軍師、太原雪斎に教育を受けたとも言われます。どうでもいい人質ならば、そんな教育をするのか?今川家に縁ある女性、瀬名との婚姻といい、それなりに大事にされていたように見えます。竹千代に同行した家臣の一人、酒井忠次については、こちらをどうぞ。↓


炒り子で出汁を取り、短冊に切った人参、細く切った油揚げを投入。再沸騰したら八丁味噌。

竹千代が駿府で過ごしていた間に、父の広忠も家臣、岩松八弥により殺害?
岡崎の三河武士達は竹千代の成長を待つ日々。
正に堪忍は無事長久の基。(東照神君遺訓)
やがて桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、元服して元康と名乗っていた竹千代は岡崎に帰還。織田信長と同盟して、今川家から独立。
犬のように忠実と言われた三河武士ですが、前述のように主君を殺した者もいることから、必ずしもそうは言えず。
家康も敵対する家臣と戦わねばならないことがありました。それが三河一向一揆。そこが初陣となった徳川四天王の一人、榊原康政についてはこちら。↓

勝つことばかり知りて負けること知らざれば、害、その身に至る。(遺訓)
長い人生、勝つこともあれば負けることもある。特に家康が何度も負けを喫したのが武田家との戦。
特に武田信玄の西上作戦に立ちはだかろうとした三方ヶ原の合戦では手痛い敗北。


一晩水に漬けておいた小豆を圧力鍋で煮て柔らかくする。加圧後、蜂蜜と塩少々を加えて水分を飛ばす。

静岡県に小豆餅という地名。この謂れには三方ヶ原の合戦が絡んでいます。
敗走途中の家康、腹が減ったので、道沿いにあった茶屋に入り、小豆餅を食べ始める。それが地名に。
しかし、追っ手が近づいてくるのを知り、慌てて逃げだす。
すると武田の追っ手よりも怖いメに。
茶屋の老婆が物凄い速さで追い駆けて来る。
「代金」と叫びながら。つまり食い逃げは許さんということ。
根負けした家康、老婆に支払い。その地は銭取と呼ばれてます。

織田信長の忠実な同盟者であった家康ですが、本能寺の変で信長が横死した時、僅かな家臣と共に堺に居ました。信長を討った明智勢に捕まり、殺されないように密かに伊賀の山中を抜けて本拠の三河へ逃避行。
それに同行した井伊直政についてはこちら。↓

不自由を常と思えば不足なし(遺訓)
小牧長久手の戦いで次の天下人を狙う秀吉と対決。その戦いで活躍した本多忠勝についてはこちら。↓

戦闘では勝ったものの、最終的には秀吉に臣従。信長の家来だった秀吉に頭を下げねばならない。不自由を感じたかもしれませんが、そこは堪忍。

徳川家康、戦国の三英傑の一人ですが、信長、秀吉に比べてあまり人気がありませんでした。
信長のような独創や斬新さもなし、秀吉のような派手さや人たらしということもなし。
地味で忍耐強い。言わば典型的な日本人かもしれません。
その忍耐が終わったのが関ケ原。ここで一気に天下人へ。征夷大将軍に任命されましたが、二年後には息子、秀忠に地位を譲り、駿府で隠居。とはいえ実権はしっかりと保持。そこから江戸幕府をコントロール。大御所政治と呼ばれる形態。
それにしても生まれ故郷の岡崎ではなく、駿府?
人質で辛い日々を過ごしたのならば、わざわざ嫌な思い出がある所に帰ろうとは思わないのでは?本当に人質だったのか?
そして大坂の陣で、秀吉の遺児、秀頼と大坂城が消えて、何の憂いもなくなることに。

駿府の家康の元には様々な人々がブレーンとして集められていました。
僧侶の天海や崇伝。参考。↓

三浦按針とは漂着した外国船に乗っていたイギリス人で本名はウイリアム・アダムス。外国の事情を聞くために傍に置きました。信長は黒人を侍にして召し抱えていたので、もしかしたら、それを真似た?
儒学者の林羅山、そして商人の茶屋四郎次郎。


主菜の材料。

刺身用の鯛 1柵
大蒜    1欠け
米粉    適量
塩     小匙1

武士以外の様々な人々の意見を聞いて政治的な判断をしていました。柔軟な思考を心がけていたというべきか。
そうした苦労も徳川家の天下が定まったことで必要なくなり、本当に隠居ということで、家康は茶屋四郎次郎に珍しい食べ物の話を聞いたので試してみることに。


大蒜を摺り下ろす。

鯛の身を衣に付けて、榧の油で揚げて摺り下ろした大蒜をかけて食べる天ぷらが流行っていると聞いたのでした。


薄く切った鯛に塩を振り、水で溶いた米粉の衣を付ける。

普段は粗食を心がけていた家康ですが、珍しい天ぷらを食べてみることに。


揚げたら油を切る。

その後で腹痛を訴えることに。
老いた胃腸に油っこい食べ物が合わなかった?或いは以前から胃癌ではないかと思われる症状があったと言われるので、一気に病状が進行?


大御所スペシャル

ご飯は家康が終生、常食にしていた麦飯。
麦にはカルシウム、カリウム、亜鉛が含まれていて、白米では取れないビタミンB1も豊富。これが不足すると脚気になってしまいます。
味噌汁は豆のみで作られた赤味噌。強精効果があるアルギニンが含まれています。元気の源というより、精子を作る効果。少子化対策には赤味噌が有効?
メインである鯛には心臓機能を強化するタウリン。生活習慣病を防止する効果もありますが、家康が食した時期はもう遅かった?
摺り下ろした大蒜を付けて食べると、天つゆでは味わえない辛みがあります。淡白な鯛にもよく合う。
デザートとして小豆餅。どういう菓子かよくわからなかったけれど、シンプルに焼いた餅に茹で小豆を掛けました。素朴な田舎菓子っぽいかと。どろどろに煮て柔らかくしたあんこではなく、粒感を残して、砂糖ではなく少量の蜂蜜を使い、小豆本来の味を楽しんでみました。

死の床についた徳川家康、久能山に葬るように遺言。此処も駿河国内。生まれた岡崎よりも多感な時期を過ごした駿河の方が心に残る地だったのか?
大御所、徳川家康の長い人生を振り返りながら、大御所スペシャルをご馳走様でした。

御礼
今年の始めに、フォロワー数を3桁にしたいという目標を掲げました。↓

皆様のお陰で、先日、思ったよりも早く達成。
ひとえにいつもお越し下さる皆さまのお陰と感謝しています。フォロワーの皆さま、閲覧して下さる皆さま、心から感謝申し上げます。
これからも少しでも面白いと思っていただけるように、歴史の話と料理の腕を磨くべく精進致します。これからも変わらぬご愛顧を頂ければ、嬉しく思います。
更なる高みを目指し、新たな目標を近々、掲げたいと思案中。シェア、拡散、スキ、フォローを更に頂けるように努力致します。
誠にありがとうございます。
皆様、大スキです。

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