見出し画像

井伊直政んまの竜田焼き

江戸時代、大名の格式は親藩、譜代、外様となっていました。
親藩とは文字通り、徳川将軍家の親戚である御三家や松平家、譜代は関ケ原以前からの徳川家臣、外様とは関ケ原以降に徳川家に臣従した大名。
譜代筆頭と呼ばれた彦根井伊家の祖、井伊直政を妄想しながら料理する、徳川四天王シリーズ第二弾。
第一弾はこちらから。↓


材料

秋刀魚の開き 2尾
片栗粉    適量
醤油     大匙1
酒      大匙1
油      適量
黒摺り胡麻  適量

譜代、それも筆頭とまで呼ばれる井伊家の祖、井伊直政ですが、徳川家発祥の三河出身ではなし。代々仕えていた重臣でもなく、徳川家臣の井伊家は直政から始まった家。
井伊家は元々、遠江国の地侍で今川家に仕えていましたが、今川氏真により粛清の危機。幼少から直政はあちこちの寺院等を転々として生き延びてきました。その庇護者になっていたのが井伊直虎なる人物。
数年前、女城主として大河ドラマにもなりましたが、ドラマ開始早々に女ではなかったのでは?という話が出て、どっちらけになったのを思い出します。


秋刀魚を四等分。

井伊家再興のためには、今川家から独立して勢いを増しつつある徳川家に仕える方がよいということから、その頃は虎松と名乗っていた直政とその庇護者達は一計。
朱雀、青龍、白虎、玄武を描いた旗を持ち、清らかな着物で、鷹狩り中の家康の前へ。狙い通り、家康の目に止まる。虎松は美男子だったのも一因?
仕官に成功。しかし、それからが大変。


醤油と酒に秋刀魚を浸す。五分位。それから摺り胡麻を塗す。水分を吸わせて、身に味を定着させるため。

先祖代々、松平家そして徳川と改姓した家康のために仕えてきた三河武士達に比べれば新参者。人一倍に働かねばという所。その成果は対武田家の戦で高天神城奪還に繋がりました。
その武田家も滅びた天正十年(1582)六月、家康主従は堺に。信長の招待を受けての上方滞在。その最中に起こったのが本能寺の変。
信長という保護者がいるから、或いは余計な警戒心を抱かせないためか、家康主従は少人数。もし襲われたらひとたまりもない。
家康は信長の忠実な同盟者。信長を討った明智勢の標的になる恐れは十分。明智ならずとも、家康の首を取れば、褒章、或いは召し抱えてもらえるとばかりに牢人や野武士が群がって来るかもしれない。


片栗粉を塗す。

そんな連中に討たれて恥をさらす位ならば、腹を切ると家康は言いましたが、まずは領国に帰って態勢を整えようと家臣達は勧める。その中には直政の姿。
伊賀の山中を超えて、海に出て船で三河を目指すことに。この剣呑な道中は後に、神君伊賀超えの危難と呼ばれることに。
道中、兵糧も尽きて、腹が減った一行、寺院にお供えしてある赤飯を頂くことに。皆が食べている中、直政だけは手を付けず。
遠慮しているのかと思ったら、さにあらず。
「今、敵に襲われたら、我は命に代えて皆を逃がす所存。討ち死にした後、腹から赤飯が出て来て、こやつは空腹に耐えかねてお供え物に手を付けたと笑われては恥辱」
主君と皆を逃がす決意を身を以て示したという逸話。


少量の油で揚げ焼き。

無事に生還した家康主従、信長の弔い合戦と思ったものの、秀吉に先を越されると方針転換。旧武田領の甲斐、信濃平定へ。
織田家の支配がしっかりと確立していない内に信長が消えたために混乱。新たな領主となった河尻秀隆も殺されていました。
ここに狙いを付けたのは徳川だけではなく、北条、上杉といった勢力も乱入。天正壬午の乱と呼ばれる分捕り合戦へ。
この時、井伊直政は獅子奮迅の働き。それにより甲斐、信濃はほぼ徳川領に。武田家の旧臣達を召し抱えた家康は、彼等を直政の配下に。
武田家には山形昌景率いる赤備えという部隊。家康はそれを継承することを直政に命じます。膨張色である赤一色の一隊なので目立つ。華やかな反面、標的にもなりやすい。


時々、引っ繰り返して、いい感じになるまで揚げ焼き。

赤い鎧を纏った直政、鬼の角のように長い脇立を兜に。小柄だったので、自分を大きく見せるためでもあった?この姿で戦場を疾駆する姿は井伊の赤鬼と呼ばれるように。
鬼と呼ばれたのは敵からだけではなく、実は部下からも。自分にも部下にも厳しかった直政、些細な失敗でも許さずに手討にすることもあり、恐れた家臣が井伊家から逃げ出すこともあったとか。
井伊家再興、そして自分を引き立ててくれた家康のために人一倍、働かねばならないという思いが強すぎた故かもしれません。
話が200年以上、飛びますが、幕末、彼の子孫である井伊直弼が殺された後、主君を守れなかった井伊家の武士達の多くが切腹とか斬首。厳しい士風は直政以来?


揚がったら、油を切る。

家康が覇権を確立した関ケ原の戦いにも、直政は大きく関与。
京極、竹中、関ら西軍諸将を東軍へと引き込み。
先陣は福島正則と決まっていたものの、天下分け目の戦は徳川が先陣を切らねばならないという考えから、家康の四男で自身の娘婿である松平忠吉と共に抜け駆け。
戦の終盤では、逃げる島津勢を追撃。島津豊久を討ち取り。しかし自身も銃撃され、被弾。
戦の後には毛利家と交渉、改易になりそうな毛利を周防、長門二国安堵という線で決着。島津家との和平交渉も仲立ち、真田父子の助命嘆願と活躍。
武勇だけではなく外交手腕も発揮。


井伊直政んまの竜田焼き

片栗粉を塗した竜田焼、からりとした焼き上がり。香ばしい黒胡麻が醤油風味をしっかりと秋刀魚に纏わせてます。
血液サラサラ効果があるEPA、脳の発達に効果があるDHA、ビタミンAやE、鉄分を秋刀魚から頂けます。

関ケ原で大活躍した井伊直政、石田三成の旧領だった佐和山へ移封。佐和山城を廃城にすることとして、新たに築き始めた彦根城。しかし、直政が彦根城に入ることはありませんでした。
築城が終わる前に42歳を一期として、佐和山城中で死去。
関ケ原で受けた銃創から破傷風になったのではと言われています。
お家再興、そして恩を受けた徳川家康のために戦い続けた井伊直政の生涯を思いながら、井伊直政んまの竜田焼をご馳走様でした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?