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おいだれ、真田兄弟

久しぶりに長野県上田を訪問。
真田一色、つまりは赤一色な町?

上田市のシンボルとも言うべき上田城。
表裏比興の者と呼ばれた真田昌幸によって築城。
この城が堅城であったことは実戦で証明されています。

真田家は元々、信濃北部の地侍。昌幸の父、幸綱が武田信玄に仕えて頭角を表しましたが、昌幸の代になって時代の荒波。
武田家滅亡、それに次いで本能寺の変で織田信長横死。それに伴い、真田家の領地を含む信濃や甲斐は、天正壬午の乱と呼ばれる動乱。
その中で起こったのが、天正十三年(1585)の第一次上田合戦。
上杉家の援軍を得た真田家は二千の兵で七千八百を超える徳川軍を撃退。

一があれば二があるということで、慶長五年(1600)に第二次上田合戦。
三千程の兵力で、徳川秀忠率いる三万八千を迎え撃ち、持ちこたえ、徳川本軍を関ケ原の合戦に遅参せしめました。
二度も徳川相手に戦い、落城しなかった。


真田神社

城跡に鎮座する神社。現在はこの名前ですが、創建当時は松平神社。御祭神は真田信之を始めとする歴代城主。真田家が松代に転封後、仙石氏、松平氏と城主は移り、明治維新を迎えました。
真田の街を売りにしているから?改称?

巨大兜


青年幸村像

真田の城、特に真田幸村の城を前面に出しているのが、これらから感じられます。もっとも幸村こと真田信繁が上田城主になったことはありませんが。


城外への抜け穴?

動画をどうぞ。↓


上田城が築かれている場所は元々、尼ヶ淵と呼ばれ、千曲川の分流に突き出した崖。

その頃を思わせる地形。

崖や川を取り入れた見事な縄張り。流石は真田昌幸と言いたい所ですが、実は現在、見られる城の遺構は真田の城ではなし。
真田信之、上田城を破却しています。そして簡素な館を建てて、其処に住んだとか。今、見えている城は真田家転封後、城主になった仙石氏が改めて築城。
信之が城を破却したのは、弟、信繁(幸村)が徳川に背いて大坂方に味方したから。
ただでさえ弟が敵方に付いた上、徳川を二度も撃退した城をそのままにしておいては、あらぬ疑いを招き、真田家自体が危うくなるという恐れから。

ここで、お笑いコ▢ナ劇場。
真田神社の拝殿で、こういう装置を見ました。

??????

拝殿には付き物の鈴がついた縄がぶら下がっていません。この六文銭に手をかざすと、鈴の音が鳴る仕掛け。試したら本当に音が。
以前、コ▢ナ対策と称して、縄に触れなくしてある神社を見たことがあります。詳細はこちらへ。

それと同じ匂いがする。奇妙な装置で面白がらせようという工夫のつもり?
もっと奇妙な物も。
城門の前で、おもてなし武将隊という方々がパフォーマンス的なことをしているようですが、そこに掲げられていたのが、これ。

あほか?

屋外では基本的にマス〇は不要と岸田首相も言っている。屋外でパフォーマンスするあんたらが範を示さずしてどうする。
二人、武将の扮装している人達。しっかりとマ〇ク。
武将や侍の扮装にまったく似合ってませんな。〇スクは。
指示通り、黙殺してやったわ。

さて、上田城を後にして、上田市内某所にて入手した物がこれ。

美味たれ

上田名物、美味だれ(おいだれ)
焼き鳥のたれだそうですが、ネットで見掛けて気になっていました。今回、上田を訪れたのは、これを入手するためでもあり。
ラベルに書かれているように、原材料はレーズンやバナナ、リンゴといったフルーツを醤油ベースでニンニクと煮込んだソース。焼肉のタレっぽい?
買ったはいいが、今の私はゆるベジタリアン。鳥獣の肉は食べませぬ。焼き鳥なんて久しく食べないし、あまり食べたい気にもならない。そこで別の食材と合わせて調理してみる。

食材

今が旬の白菜。写真に撮るのを忘れたけど、これに人参を加えます。右手前は所謂大豆ミート。
肉を食べずとも、大豆から十分にタンパク質は取れます。しかし最近は意図的に食糧危機を演出したい人達がいるようですな。そうした人々は新たなタンパク源として昆虫食を勧めたいようで、私はテレビを持っていないので視聴していませんが、最近、食用コオロギを飼育している高校生の話が放送されたとか。
テレビがごり押しすることは疑えというのが信条。少し調べると、コオロギには発癌性があるとか?
同じ虫でも、信州などで昔から食べられているイナゴの方がまだ良いのかも。

大豆ミートを水で戻している間に人参を拍子木形に切り、油を入れた中華鍋に入れて、点火。

根菜は固いので、先に火を入れて柔らかくしていきます。
油が絡んでいくにつれて、艶々と赤みが際立つ。赤い。真田の赤備えのように。ということで妄想。

第二次上田合戦で徳川を退けたとはいえ、この戦は関ケ原合戦に伴う局地戦のようなもの。西の関ケ原では真田昌幸や幸村が属した西軍は敗北。いくら真田だけが勝っても西軍自体が負けていたため、真田親子は上田を追われ、紀州の九度山へ配流。昌幸の長男、信幸が代わって上田を統治。この時に改名して信之と名乗るようになりました。徳川家を憚って真田家の通字、幸の字を捨てたということ。


戻した大豆ミートを投入。

兄の信之が徳川方、弟の幸村が石田方。どちらが勝っても家が残るようにした?というよりも、彼等の妻が一因かも。信之の妻は徳川家の養女という格式で嫁いできた小松姫。(実際は本多忠勝の娘)参考に。↓

一方、幸村の妻は石田三成の盟友、大谷吉継の娘。武家の婚姻はいざという時に味方になってもらうための政略。正にその通りになったということ。
敗れた西軍に属した昌幸と幸村は九度山へ。昌幸はその地で死去。


白菜投入。

大坂の陣が起こると、幸村は大坂城へ。ほぼ負けるとわかっている大坂方に与したのは豊臣家への恩義というよりも、失意の内に亡くなった父に手向けるつもりだったのではないかと妄想。
沼田や上田を統治している兄に迷惑がかかることは承知していても、それでも武家としての意地、負けるとわかっていても全力を尽くして起死回生を願う。そんな意気込みだったのではないか。人には滅びの美学と言われるかもしれません。

炒めている間に、白菜から水分が出てきます。味が薄味にならないように美味だれを多めに入れていきます。
この料理、焼き鳥のタレである美味だれが果たして野菜にもあうのかという実験料理なので、分量は定めずに調理開始しています。何故、人参と白菜なのかというのも、たまたま家にあったから。調味料も美味だれ一本で決める。

真田家は割田とか唐沢という忍びの一族を抱えていました。兄の信之は忍びを遣わして弟を亡き者にということも、九度山にいる間に出来たかもしれません。しかし、それはやらなかった。
参考までに、真田の忍び達の墓。↓

弟の心情がわかるからこそ、兄もその行動を黙認していた。そんな気がします。戦国乱世、兄弟相克はよくありました。弟を殺した大名も珍しくありません。織田信長とか毛利元就とか。
決してそれをしなかった信之。代わりに自分の名を変え、城まで壊して真田家を守りました。
兄は家を守り抜き、弟は真田の武名を大いに挙げた。
上田と九度山、距離は離れていても兄弟の心は繋がっていた気がします。


完成。真田美味だれ炒め

最終的に使用したのは美味だれ、大匙4、白菜1/4、人参5センチ。
人参の甘味が美味だれで引き立つ。白菜にも美味だれはよく絡む。美味だれを吸い込んだ大豆ミートの弾力がアクセントになる。
結果、大成功。美味だれは野菜にも合うことが証明されました。
後日、大根ステーキを作った時に絡めて焼いたら、これも美味でした。

美味だれとは、上田の方言でお前たちという呼び掛けの言葉、おいだれから命名されたとか。兄弟の父、昌幸、「おいだれ、よくやった」と喜んでいたかもしれません。


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